モーリス・ドニ、そして女のいない「画家が見たこども展」

(6月22日「画家が見たこども展」@三菱一号館美術館 鑑賞記録)

 

無料の招待券を手にしてなければきっと行かなかった。

三菱一号館美術館のむせ返るような富の気配、都会のど真ん中の、権力と資本の力をありありと示すような場所にあるその建物と建物の周りを取り巻く人々、そして「画家が見たこども展」という、こどもや家族を描いた男の芸術家たちを何らの批判もなしに取り上げるそのセンス。何もかもが、無料の招待券を手にしていなければ行こうと思わないものだった。

けれどもわたしはたまたま無料の招待券を手にしていた。

だから行ってみると、「画家が見たこども展」には本当に文字通り、著名(らしい)な画家が描いた子どもの絵ばかりが飾られていた。あるいは家族の光景。なんのひねりもなかった。子ども。画家。画家、それも男の画家。知っているのはゴッホゴーギャンだけで、美術に疎い私は他の画家は少しも知らなくて、ボナール、ヴュイヤール、ドニ、ヴァロットンの誰も知らなくて、「ナビ派」という言葉も実際に行ってみて初めて知った。ナビ派。ナビという言葉が何を意味しているかも知らないまま、私は「ナビ派」の画家が描いた無数の子どもの絵に取り囲まれていた。

 

あまりにも当たり前のような顔で「ナビ派」という言葉が出てくるので調べてみると、「ナビ」というのは旧約聖書の「預言者」を意味するヘブライ語で、ナビ派の画家の多くは熱心なカトリックだったらしい。その説明は納得のいくものだった――なるほど、と、私はモーリス・ドニの絵の美しさに怖気をふるいながら考えた。ナビ派の、熱心なカトリックの男性の画家たちが描く「こども」の絵と、その絵に関するほんのわずかの批判精神さえも感じられない解説と、三菱一号館美術館。全てはこれ以上ないほどに調和していたのだった。

 

ドニの絵の中では、彼の実際の家族が聖書の中のモチーフに重ねられて描かれていた。

長女が末の兄弟の世話をする様が、イエス・キリストを抱く聖母に重ねて描かれ、それを少しの疑いさえ持たずに説明する文章が横に並び、たっぷりお金をかけているに違いない麗しい建物が展示物を彩っていた。ほんの2〜3歳に見える幼い女の子は、絵のなかで聖母そっくりの祈る手のポーズを取っていた。

私は反射的に、絵の中の幼い少女に同情した。

モーリス・ドニがモデルとして描き続けた、彼の妻や子ども達に同情した。

目の前の家族を聖母やキリストの織りなす光景と重ね合わせて見続け、描き続ける男を父や夫に持つのはどんな気分のすることだろう? こどもを、家族を何より好むと言いながら、自分ではひとりもこどもを産まずに女に産ませ続ける男と暮らすのはどんな気分のすることだろう? あるいはもちろん、幸福だったのかもしれないけれど――私はドニのこともその家族のことも知らない。けれども考えずにはいられなかった。

一体、どんな気分だっただろう? こんな男を家族に持つということは。そのモデルとして描かれ続けるということは。

 

モーリス・ドニの絵は美しく不気味だった。

たとえば《青いズボンの子ども》――茫洋とした色合いの、背景の色彩に溶け込みそうな、色と色の間の線が引かれつつ曖昧なような、そんな輪郭を持った女性と、女性に比べてずいぶんと小さく見える、その腕の中のこども。母の腕に抱かれるこどもの不自然な小ささは、こどもの無力と母の庇護を過度に強調しすぎているように思え、不気味だった。こどもの目は顔に空いた虚空のようで、瞳というよりは単なる穴のように見えるその顔は不気味で、小さすぎる手は奇妙に現実味がなく、恐ろしかった。幽霊のようだった。「こども」の生命力、瑞々しい命の活力も真新しい世界に触れる生命体の新鮮さもなく、青ざめ、影の中で瞳の輝きすらも失って、関節の存在しなそうな指に抱かれている。そんなこどもを抱く優しげな女性。その絵を美しく心温まるものとして紹介する解説。端的に言って、グロテスクだった。

 

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だけどそう感じたのは、私の中に一種の偏見があったからかもしれない。

説明文からうかがえるモーリス・ドニという男性への反発が私の中で膨れ上がり、もともと存在の希薄な私の「見る目」はその反発を強く反映して歪み、もはや何を見ているのかわからなくなっていた、かもしれない。私が見ているのは、モーリス・ドニの絵ではなくて、彼に関する説明文から知った何かでしかない、かもしれなかった。私は何を「見た」だろう? 物事を言葉を介さずに、あらかじめ自分の中に存在している何かを介さずに、一体何を「見る」ことができただろう?

 

偏見――私がドニに抱いたものと、あの展示それ自体が含んでいたもの。

「画家が見たこども展」、善かれ悪しかれ「こども」という存在に最も近しく最も長い時間を共に過ごしただろう数多の女性達は、どうして一枚も絵を描かなかったのだろうか? それともやはり、描いたのだろうか? 描いたにもかかわらずここにはいなかったのだろうか? ナビ派にはいなかった、それで良いということになったのだろうか? ナビ派の画家の妻たちは何を思っただろう? 女たちは? 「画家が見たこども」のテーマで展示を行うと決めた時、ただのひとりも、女性の画家が存在しないことを疑問に思わなかったのだろうか? 

そんな疑問が頭を占めていく。

あの、いつもの、おきまりの状態が訪れる。美術を、芸術を「純粋」に愛する人々が忌み嫌うあの「政治」に頭をすっかり埋め尽くされ、結局のところモーリス・ドニの絵ばかりが印象に残り、疑問符ばかりが浮かぶ。「美術」はおそらく私の手から滑り落ちていく。私の頭は本質的ではない「瑣末」な問題にあまりにもしばしば囚われてしまう。本当に「純粋」に美術を見る目が、自分には全く備わっていないのではないかと疑う。私には絵を見ることなどできないのかもしれない。少なくともあの三菱一号館美術館で、私が見ることができたのは、なんだったのだろう? あの不気味な絵! モーリス・ドニの《青いズボンの子ども》! 他にもたくさんの絵があったというのに、私が覚えているのはたったそれだけだったのだ。

日記(06.12)

拝啓

 

お元気ですか。

いえ、お元気なことは知っています。わたしは未だに時折あなたのSNSを見に行っています。相変わらずお元気で、時折流行りのジャンルに浮気しつつも、あなたが未だにあのジャンルで活動していること、本を出し続けていることを知っています。ぜひ買いたいと何度も思いましたが、わたしたちが友人だった後にあなたが出した何冊もの本を、未だに一冊も買えていません。たとえ買ったとしても、あなたの本を買う大勢(あなたがこっそり教えてくれた頒布部数をわたしは忘れていません)のうちのひとりにわたしがいるなどとバレるはずがないと知りながら、まだ買うことができません。

 

最近のわたしは本当につまらない人生を送っています。

退屈で、凡庸で、心動かされることの存在しない日々です。

とはいえ、何もない訳ではありません。それなりに面白い本を読み、それなりに人間関係で悩み、それなりに苦痛を感じ、それなりに喜びを感じる日々です。大きく揺れ動くことのない日々です。どこかが麻痺しているような気がします。

以前のわたしは、一体どこにそんなエネルギーがあったのか、今となっては思い出せないほど毎日腹を立て、我慢ならない苦痛を感じていました。ちょっとしたことで何時間も身じろぎのできないほどの腹痛に悩まされ、頭が割れそうな頭痛に悩まされ、嵐のように上下する情緒に振り回され、神経を宥めすかすことがまるでうまくできませんでした。

今は違います。嵐の中にはもういません。何かに傷ついても、何かに失望しても、何かに大きな感動を覚えても、それは持続しません。たとえばある時、ある人のことをとても好きだと感じたとしても、時間が経つとそれほどでもなくなることに気がつきます。人間関係は常に微細に動きを見せ、ある時素晴らしい瞬間があったとしても、物語のような完璧な幸福をもたらすことはないのです。そんなことは今更言うまでもないことですが、ご存知の通りわたしはいつだって頭の中の理想に夢中で、現実の人間のことなんてちっとも見ていなかったので、これほど大人になってからようやく本当の意味で気がつきました。完璧な幸福は存在せず、素晴らしい瞬間が永遠に続くことはないのです。

 

だからまだあなたの本が買えていないのも、わたしが未だにあなたを忘れられないからではないのだと思います。わたしはもう、あなたのことなどどうでもいいのだと思います。ただもうどうでもよくて、面倒だということだけが大部分を占めていて、だからあなたの本を買えないだけだと思います。こうして、オンライン上であからさまに書けることの限られている場所で、なおも何か今感じていることを書き記したいと思った時、あなたに宛てた手紙の形式を選んだことに、特に意味はありません。全ては惰性です。どうせあなたはこの文章を読まないでしょう(わたしのことがわかるなら、あなたの誠実な性格を思えば、とっくに連絡をくれていたはずです。要するにあなたはわたしがわたしであることに気づいていないのです)し、わたしだってもはやあなたに読んでもらいたい文章などありません。あなたへの手紙という形式を取ることが、今一番便利だったからそうしただけです。ご覧の通り、わたしはもうあなたのことさえどうでもいいのです。こんなに揺れ動いたことはないと言うほど揺れ動かされたあなたのことさえどうでもいい。

わたしはもう嵐の中にはいません。あなたが他の人と遊びに行ったと知っただけで何時間も泣いていたようなイカれた人間ではありません。あの頃のわたしは本当にバカみたいでした。さぞ迷惑だったことと思います。にもかかわらずあなたはわたしに優しかった。そのことには今も感謝しています。でももう、何もかもどうでもいい。あなたのことさえどうでもいい。

以前のわたしは、いつかあなたがわたしがわたしだと気づいてくれることをどこかで期待しながら文章を書いていました。たくさん書きました。ブログはふたつ、ノートがひとつ、同人誌は3冊です。たくさんの文章です。あなたがもしかしたら読んでくれるかもしれないと、わたしはどこかで期待し続けていました。何度かブログの記事がバズることもありました。あなたのSNSを見に行きました。言及はひとつもありませんでした。読んでいないのですか、読んでもわたしだとわからなかったのですか、それともあなたのところまでは届きませんでしたか、リツイートか何かで目にしてもあなたの気を引くことはできなかったのでしょうか。怯えと期待が入り混じっていました。でもいつからか、あなたに読んでもらうことを期待するのはやめていました。現実は物語のようにうまくはいかないとようやく気がついたのです。わたしは本物の愚か者です。それから時間も経ちました。そんな馬鹿げた妄想をいつまでも続けるにはあまりに長い時間が経ちました。わたしはもう嵐の中にいません。喜びも悲しみも怒りも苦しみもわたしの体におさまらないほど大きなものはありません。わたしを揺れ動かすものはありません。現実を生きています。だからあなたに読んでもらいたい文章はありません。わたしは本当につまらない人間になりました。

『魔女の宅急便』と女の人生

かつて『魔女の宅急便』を観た時、幼い自分が何を考えたのか、わたしは思い出せない。

何を考えただろう? ジジが可愛い、キキが可愛い、空を飛べるっていいな、魔女っていいな、という以外に、一体何を考えただろう?

おそらく何も考えてなかったに違いない。ニシンのパイを届けるシーン、ジジが動かずにぬいぐるみのふりをしているシーン以外のことはほとんど何も思い出せないのだから。

 

幼い頃何を考えたかは少しも思い出せないのだけど、先日金曜ロードショーで久しぶりに『魔女の宅急便』を観たら、幼い頃には気づかなかったに違いない色々なことを考えたのだった。

もうわたしは幼い子どもではなくて、物語の中の出来事がただ単に出来事としてあるのではなく何らかの比喩や象徴として存在している(少なくとも古典的な「文学」の考え方ではそういうことになっている)ことを知っているし、キキがホウキに乗れなくなったのは初潮(=成熟)のメタファーだったら嫌だな、とか、そんなことを考えたりする。

そうして考えてみると、覚えていたよりずいぶん悲しくなる話だった。

キキは「女の子」で、「女の子」の成熟のわかりやすい兆しは初潮で、だとするとキキがホウキに乗れなくなったのは初潮がきたこと、もう自由に空を飛べる子どもではなくなったこと、地に足をつけて歩む大人になったことの象徴かもしれなくて、もしそうだったらすごく悲しい。

キキがホウキに乗れなくなって、一生懸命ホウキに乗る感覚を取り戻そうとしたり、「空を飛べることがわたしの取り柄だったのに」と悲しそうに言っていたり、そういうところを見ていると本当に悲しい。

ホウキに乗れなくなったキキが再び空を飛ぶのがトンボ(=男性)のためというのも、二人が助かると同時にオソノさんの「出産」が示唆されるのも、少女の「成熟」が男性と出産に向かって方向付けられているように思えて悲しい。

ジジが喋れなくなるのも、キキが自分だけの小さな隠れ家を失ってしまうのも、いくらそれが「成熟」なのだと言っても悲しい。

放送が終わったあと、『魔女の宅急便』でいろんな年齢の女のキャラが出てくるのは「ひとりの女性の成長」を描いてるんだ、といった趣旨の解釈を見かけたのも悲しい。それは女性の人生の種類を限定してしまうものの見方に思える。森の中で画家をやってる女の子とパン屋さんで切り盛りしてる妊婦さんと婆さんと二人暮らしをしているおばあさんはみんな別の女なのに、女にはいろんな生き方があり暮らし方があるのに、その多様性が年代の問題に還元されてしまうように思える。

要するに、大人になってから観る『魔女の宅急便』はただ何も考えずに見ていた頃よりずっと悲しくなる機会の多い作品だった。それはある意味、ひとりの少女の「成熟」を描く物語であり、少女の「成熟」に関する限定的な捉え方が表れている作品のように思えたのだ。

 

ただ、『魔女の宅急便』はもちろんそれだけではなくて、たとえば森の中で画家をするウルスラさんを、ウルスラさんがキキにもたらした影響の大きさ(あるいはウルスラさんとキキの関係に女同士の絆やクィアネスを読み取ることもできるかもしれない)を、パン屋で切り盛りするオソノさんを、ファッションデザイナーとして活躍している女性としてのマキさんを、老女二人で暮らしているらしき女性たちを、あの作品が実に様々な「女性」の姿を描いていることを、それ自体として単にポジティブに受け取ることもできる。

魔女の宅急便』には実に多様な「労働する女性」が出てくるのである。魔女であったり、パン屋であったり、画家であったり、ファッションデザイナーであったり、それは様々である。

だからたぶん、『魔女の宅急便』は「仕事をして自立する女性」を様々な角度から描いた作品、女性のビルディング・ロマンとして解釈することもできるかもしれない。

わたしはよく知らないけれど、一種の「フェミニズム」的な作品として評価されていたりもするのかもしれない。

わたしは『魔女の宅急便』のことをあんまり覚えていなかったけれど、あの作品に励まされた女の子、キキみたいに頑張ろうと思った女の子もいたかもしれない。キキに限らず、マキさんに、オソノさんに、ウルスラさんに、作品を彩る魅力的な少女たちに魅せられた人は多かったかもしれない。それは良いことに違いない。

 

大人になったな、とぼんやり思う。

かつてわたしはキキと同じくらいの年齢だった。キキと出会った時のわたしはむしろキキより幼い少女だった。わたしにとってのジジがいた。わたしもホウキに乗れているような気がしていた。魔法を使えたことはなかったけれど、すごく小さな頃は、たとえば11歳になったらホグワーツの入学許可書が届くんだと信じていた。わたしは子どもだった。少女だったのだ。

けれどももう子どもではない。

わたしはもうジジと話すこともできないし、ホウキに乗ることもできない。

今思うのは、キキもオソノさんもウルスラさんもマキさんもニシンのパイの少女もおばあちゃんもその同居人も、ありとあらゆる女がいて、ありとあらゆる女の、それぞれの人生があるということである。

大人になって観る『魔女の宅急便』は、覚えていたよりも悲しくて、覚えていたより色々な女性の姿があって、覚えていたよりずっと複雑な気分になる作品だった。

ミッドサマー=姥捨山

※『ミッドサマー』ネタバレ全開

 

数日前、アリ・アスター監督の新作『ミッドサマー』を観てから、わたしだったらそもそも電話に出ないだろうな、ということを考えている。

わたしは電話に出ないのだ。

だからダニーはわたしには電話をかけてこない。ダニーが電話をかけるのは、クリスチャンか、あるいはダニー自身のような人なのだ。

 

 

ミッドサマーは、美しい色彩と幻想的な光景が印象的な映画である。

主人公の女性・ダニーと、その彼氏・クリスチャンおよび彼氏の友人たちが、いささか変わった風習をもつスウェーデンの村に行く、というのがおおよそのあらすじである。

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ダニーはもともと精神的に強い不安を抱えている。

彼女の妹は双極性障害である。妹から送られてきた奇妙なメッセージに、彼女は不安を覚える。そして泣きながら彼氏であるクリスチャンに電話してしまう。だけど電話すると、こんな風に電話してしまって鬱陶しがられたらどうしよう、とまた不安になってしまう。

彼女は見捨てられること、疎んじられることに強い不安を感じていて、それは彼女の妹に対する彼女自身の感情とパラレルになっている。

妹に振り回されることへの疎ましさと、それを抑え込む強い罪悪感とが彼女を追い詰め、彼女自身をも妹と同様に「厄介」な人間にしてしまう。

彼氏のクリスチャンは、彼女を見捨てるほど「冷酷」になることはできないけれど、本当はずっと彼女を疎んじており、彼女と別れたいと感じている。

クリスチャンの友人のマークは、そんな面倒な女とは早く別れろ、とクリスチャンをけしかける。マークには思いやりといったものは存在しないのである。もうひとりの友人、ジョシュは何も言わない。彼はおそらく、友人とその彼女の関係になど関心がないのである。彼が興味を持っているのは自分の研究のみであり、友人にもその彼女にも、あるいは研究対象となる人々にも、さほどの関心を持っていない。

そういうなかで、ダニーの妹は自殺し、両親とともに無理心中してしまう。

ダニーはあまりに大きな悲劇に直面してしまったのだ。そうしていよいよ追い詰められてしまったダニーと、悲劇によってますますダニーを見捨てることはできず、けれどもより一層「厄介」になったダニーを持て余す彼氏のクリスチャンと、他の友人たちとが、スウェーデンの村に行く。そういう物語である。

 

風変わりな村の描き方はサイコスリラーじみている。だけどホラーと言うほどではない。グロテスクなシーンが少なからずあるけれど、超常現象めいたものはない。

ホラー映画かと思い、それほどホラー映画が得意ではないわたしは少し身構えていたのだけど、ホラーのような要素はなかった。

だからホッとした。怖くなかった、よかった。そう思った。

怖くないどころか、むしろ心地よかった。

美しい風景、溢れる花々、笑い踊る人々を見ているのは気分が安らぐことだった。泣き喚いている姿さえ爽快に思えた。夏の明るい休暇の風景、麗しい自然、グロテスクなシーンがどれほどあったとしても、それは全てを損なうほどではなかった。グロテスクさはあまり問題にならなかったのだ。ただ綺麗だと思った。

そしてわたしは、爽快な気分のまま映画館を後にして、帰りの電車のなかで10〜15分くらいで簡単に感想をメモした。爽快さと心地よさと高揚感のまま、わたしは物語を「ハッピーエンド」だと考え、メモの中でも「よかった」と繰り返している。ダニー、よかった、と。ダニーのために、あの結末で、よかったのだ、と。

 

けれども、映画を観終わった翌日あたり、観終わった直後の高揚感が薄れていくと、冷静に考え直してみれば、あれは姥捨山の物語だったのではないか、と思うようになった。

姥捨山、社会にとって不要な人間、たとえば働けなくなった老人を山に捨てる物語。

ミッドサマーはある意味で、トラウマを抱え周囲の人間にとって「厄介」にならざるを得ない人間(=ダニー)が捨てられる物語だったのではないか? 

「普通」の社会でうまく居場所を見つけることができず、ひとりでトイレにこもって口を押さえて泣くしかないダニーが、「普通」の社会ではないところに連れて行かれ、そのままそこに置いてけぼりにされる物語だったのでは? あれは美しくコーティングされ、幸福な結末のように見せかけられた姥捨山の物語だったのではないか?

 

たとえばクリスチャンを代表とする、健常社会にとって「厄介」な人間であるダニーをあからさまに「見捨てる」ことには気が引けるだろう。

マークだったらそうではないかもしれないけれど、クリスチャンは気が引けるだろうし、より正確に言えば「困っている人を見捨てるのはよくない」という規範が存在する社会では少なくとも褒められたことではない。

だから現代社会において、たとえ実態としてはそれに近いものがあったとしても、文字通りの「姥捨山」をしてしまう人はそういない。それをやったら犯罪になる。山に捨てたら犯罪になるのだ。山ではないところで、「捨てる」という言葉を使わないところであれば、許されたとしても。

現代社会において姥捨山は「よくない」のだ。

だからクリスチャンは電話に出てしまうのだ。本当は別れたい、と一年以上も前から言いながら、それでもなお。

 

そしてクリスチャンが電話に出てしまうように、『ミッドサマー』の観客は基本的に、姥捨山が良くないことだと知っている人々だろう。

観客の中にはダニーもいれば、クリスチャンもいて、ジョシュもマークもいるだろう。程度の差こそあれ、「姥捨山はよくない」という規範が存在していることを知っているだろう。

 

ところが、姥捨山が良くないことだと知っている観客に、『ミッドサマー』が見せるのは姥捨山の物語なのである。

ミッドサマーでは、一見、クリスチャンやマークやジョシュは「被害者」である。

乱れなく調和した共同体であるホルガ村は独特の価値観に基づいて運営されており、彼らにとってクリスチャンたちのような一般的な「社会」を象徴する人々は、人間というよりむしろその調和を保つために捧げられる供物、排除するべき異物でしかない。だからマークは真っ先に殺されるし、ホルガ村を研究対象としてしか考えないジョシュも殺される。そしてダニーを疎んじながらも見捨てることのできなかったクリスチャンは、最後に、最も劇的な形で殺される。

 

なぜクリスチャンが最も劇的な形で殺されなければならなかったのか?

 

それはダニーが、頼りなく居心地悪く感じながらもギリギリのところで「社会」にとどまっていた最もたる理由が彼であり、同時に踏ん切りをつけられずより一層追い詰められる原因になっていたのが彼だからである。

クリスチャンは愚かで思いやりに欠けた人間だったけれど、ほとんどの人は愚かで思いやりに欠けた不十分な人間である。不十分で不完全であることはある意味では「社会」の特徴に他ならず、その不十分さと不完全さを本当に切り捨てた時、ひとは別の場所に、たとえばホルガ村に行くことになるのである。

 

マークが死に、ジョシュが死に、クリスチャンが死に、ダニーはホルガ村の一員になる。

彼女を持て余した「健常社会」は一人残らず殺された。彼女はもはやひとりでトイレにこもって泣くことはない。彼女を腫れ物扱いする人はもういない。

彼女と全く同じように笑い、全く同じように泣き、そうして乱れなく調和した共同体として一体になってくれるホルガ村の人々がいる。

映画のラストシーンで、彼女はクリスチャンらを生きたまま焼きながら、焼かれる苦しみに同調するホルガ村の人々のなかで微笑む。物語はダニーの笑顔で幕を閉じる。まるで麗しいハッピーエンドのように。マークもジョシュもクリスチャンも殺されて、彼ら「健常社会」はまるで「被害者」のようで、ダニーはついに居場所を見つけたかのように。

 

そして映画を観ている観客――そこには「殺されることのない」マークやジョシュやクリスチャンがいるかもしれない――には、ダニーの笑顔が残されて終わる。殺されることもなく、だから何も「被害」を被ることもなく、そしてダニーの笑顔で終わり「健常社会」があたかも「被害者」であるかのような物語によってとりたてて罪悪感を感じることもないまま、むしろ心地の良い爽快感と共に映画館を後にすることができる。

罪悪感を喚起されることもなく――ダニーのためにはあれでよかった、彼女にとってはハッピーエンドだったのだ、そう思って――、物語の中で自分と近しい立場の人が無残に殺されたことである種「免責」されて。それがある意味での姥捨山、本当の意味での救いも何もない、美しく飾り立てられた姥捨山の物語であることに気づくこともなく。ただ、よかったと、そう思いながら。

 

 

***

 

映画館を後にして、数日経って、高揚感が薄れ、あれは本当にハッピーエンドだったのだろうかと疑いを抱くにつれてわたしは気がついた。

わたしが電話に出ないことに。ダニーの電話に出たくない、けれど不幸になってほしいとも不幸なままでいてほしいとも思っていない、できることなら幸せになってほしい、だけど電話には出たくない。と、自分がそう思っていることに。本当にグロテスクなのはなんだったのか、ということに。

ミッドサマー感想メモ

※ネタバレ全開10分感想メモ

 

ミッドサマーがネタではなく本当にある種の人にとっての救いであり癒しになる映画なんだなと思ったのは、主人公のダニーは彼氏の浮気を知って吐いて泣き喚いていて、そこでコミュニティの女性たちが彼女と共に泣き喚くシーンを観た時だった。あれは紛れもない救済で癒しだった。

すとんと胸に落ちるようにおもった。よかった、ダニー、あなたと一緒に泣き喚いてくれる人がいて、本当によかった、と。


なにしろ彼女ははじめから不安を抱えていた。

ダニーは、物語のはじめから家族に問題があり、不安を抱えていて、彼氏に頼らずにはいられなくて、けれども頼りすぎて嫌われたらどうしようと怯えていた。そしてそんななか、妹と両親が死んでしまうという本当に大きな悲劇に直面してしまったのだ。


ダニーが直面した悲劇はあまりにも大きくて、頼りすぎて嫌われたらどうしようなんて言ってる場合じゃないほど大きくて、誰かの助けを心底必要としていて、なのにまさしく「あまりに大きな悲劇に直面した」というその事実によって、ダニーは彼氏をはじめとする「普通」の人々には避けたくてたまらない「厄介」な人になってしまう。

彼氏のクリスチャンは思いやりこそあれど本当はダニーを持て余していて、ずっと前から別れたいと思っている。でも別れられない。それは愛や優しさというよりは、単なる優柔不断のように思える。

クリスチャンは根本的にはダニーの気持ちをわからなくて、彼女ほど大きなトラブルを抱えていなくて、彼氏の友達はもっとあからさまにダニーを鬱陶しがっている。
だからダニーはいつも大声で泣き喚きたいのを堪えて、ひとりでトイレにこもったりひとりでみんなのところから歩みさったりして、手で口を覆って声を押し殺して泣いている。

 

だけどあのコミュニティでは、ダニーと共に笑い、ダニーが泣いたら共に泣き喚いてくれるひとたちがいたのである。

彼氏の浮気を知って吐いて泣くダニーに、コミュニティの女性たちは囲むように寄り添い、彼女の声に合わせて泣き喚く。

それまで彼女の周りの誰もしてくれなかった、でも彼女にとってきっと何より必要だったことを、コミュニティの女性たちはしてくれたのだ。


最後、コミュニティに受け入れられたダニーは彼氏と文字通り永久に決別することを選ぶ。

彼女はこんもり生茂る花のなかで、燃え盛る神殿を、かつての彼氏を、置き去りにしてきた世界を眺めている。

眺めている彼女はあからさまに取り乱して泣いたりはしていない。だけど彼女のそばで、コミュニティの人たちはひどく取り乱したように体を大きく使って怒るような泣くような仕草をしていた。

思うのだけど、たぶん、ダニーもみんなのように振る舞いたかった。

どうにもならない想いできっと、怒ったり泣いたり地団駄を踏んだり、思い切り外に発散するように、トイレにこもって口を手で覆うように泣くのではなくもっとあからさまに泣いたりしたかった、だからその通りにしている人たちを見て彼女は救われるし、彼女はもう二度とトイレで口を押さえて泣く必要はないことを知って笑うのだと思う。最後のシーンのダニーの微笑みは当然なのだ。

もうひとりで泣く必要はない。本質的にどうしても寄り添うことのできない人たちの中で、厄介者であることを知りながら気づかないふりをして自分を押し殺す必要もない。ダニーにとってずっと必要だったものがようやく与えられた。よかった。本当によかった、ダニー。

狭き門

「では、あなたは、希望のない恋を、そういつまでも心に守っていられると思って?」

「そう思うよ、ジュリエット」

「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」

アンドレ・ジッド,山内義雄訳『狭き門』,新潮文庫,p.249)

 

 

わたしは高校生のころ、『狭き門』という小説を、どうしてかはうまく言えないのだけど大変に好きだと思っていた。

ものすごく単純に言ってしまうと、信仰にもとづく徳や完璧な歓喜を追い求めるあまり破綻してしまう恋の物語なのだけど、表面的な物語とは別のところですごく好きだった。特に気に入ったのが「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」という台詞だった。かつてのわたしはそれを、当時の読書記録に書き写した。声に出さずとも幾度となく呟いたのだった。

だけど昔のわたしは、どうしてそれが好きなのかうまく言語化できなくて、だから小説について覚えているのも、ぼんやりとした印象と気に入っていた断片的なフレーズのみで、でも最近読み返していて、気づいた。どうしてそれが好きだったのか、今では明瞭に言葉にできることに気がついたのだ。

 

どうして現代日本に生きていてとりたてて信仰心があるわけでもないわたしが、1908年のフランスの男性が書いた信仰と人間関係をめぐる小説に惹きつけられたのか?

 

なんてことはない、それは簡単に言って、わたしがオタクだったからである。

わたしが関係性のオタクだったから。信仰とは違うけれど、心に抱く理想がわたしにもあったから。理想の関係性と現実の関係性の落差に怯える様、理想を想うあまり現実の人間関係を遠ざけてしまう様、完璧な歓喜を追い求めるあまり全てが破綻していく様、それが関係性のオタクの心に響いたから。たとえば同じオタクと理想を共有しながら、それについて語り合いながら、にも関わらず語っているところ共有しているところの当の理想とは隔たれた自分たちの関係性に歯がゆさや落胆や焦燥を感じること、そんなことがわたしにもあったから。

 

以前わたしは関係性のオタクについて「お人形遊び/叶えられなかった祈り」というブログを書いたのだけど、そこでこんな風に書いた。

 

現実の人間は変わる。日々の中で移ろいゆき、常にひとところにとどまることができない。生きている人間はどうしようもなく自由で、現実は強力で、変わらないものはなくて、妥協のないものはなくて、本当に全き純粋さみたいなものはなくて、そういうことにうまく耐えることができない。

 

改めて読み返してみると、どうしてかつてのわたしが「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」という台詞を気に入ったのか、あまりに明白なように思う。

 

 

***

 

 

『狭き門』のなかで、アリサとジェロームは信仰について、詩について、互いの精神世界に踏み込む事柄を語り合う。自分たちの幸福をたまらなく愛おしく思っている。

だけど同時に、その幸福が、自分たちの関係が、本当に追い求めるものと重なるのか、これから先も重なり得るのか、恐れている。

ふたりは幾度か恐ろしい落胆を味わう。完璧になるはずだった、幸福で満たされるはずだった出会いが、気詰まりと失望のなかに終わる悲しみを味わう。

とりわけアリサは苦しむ。彼女の心に抱く信仰にもとづく理想のためには、むしろ共にあっては近づけないと考えるようになる。そんなアリサに、ジェロームもまた苦しむ。最終的にふたりは心を擦り合わせることができないまま、アリサは死んでしまう。

 

読み返してみたら、そういう『狭き門』がまたもやひどく心に響いてしまった。

全然違うといえばまあ全然違うのだけど、ジェロームとアリサの苦しみを、わたしも知っているような気がした。要するにオタクとしての自分のあれこれに『狭き門』が刺さったのだ。そういえばわたしは、同じ関係性のオタクの女のひとのことがものすごく好きで情緒が完全にめちゃくちゃになってた頃、よく思っていた。理想について、現実について、その落差について、それでも失われない何かについて。

 

めちゃくちゃになってた頃のわたしは、よく思っていた。

わたしたちはどうして、こんな風に(表面的には「オタク語り」という形態を取りながら)人間関係や人間性をめぐる解釈を、根本的な世界観を、理想を、これほど共有しながら、自分たちでそれをやることができないのか? 

余程のことがないと他人には開示しないような、自分の核となる価値観を見せ合って、ある意味では最も深い種類のコミュニケーションをやりながら、でも同時に「オタク語り」というワンクッションを挟んでいて、それは表面的には深いコミュニケーションではなくて、じゃあ結局のところこれってなんなのか、わたしたちはなんなのか、ワンクッションを挟まずにはいられないコミュニケーションってなんなんだろう? たまらなく大切だと思っているものを共有していて、欲望と理想を詰め込んだ創作物を見せ合って、でもそんなことをしながら恋人というわけでもなくて、一体なんなのか。

 

それこそがたまらなく特別なんだと思うこともあれば、全く馬鹿馬鹿しいままごとに過ぎないと思えることもあって、なりきりなんか特にもうダメで、とにかく苦しかった。こうして文字にすると本当にバカみたいだけど、でもわたしは全くもって真剣だった。本当に思い悩んでいた。既存の関係性に当てはまらない強い絆や感情、みたいなものはわたしの理想の関係性の核となる部分だったけれど、自分が築いているものの実態は掴めなくて、考えれば考えるほど焦燥感でいっぱいになって、どうしようもなかった。

信仰心とも詩ともなんの関係もないけど、しょうもなくて馬鹿馬鹿しいけど、でもそれがわたしにとっての真実で、表面的にはなんの関係もないけど『狭き門』は確かに刺して来るものがあって、わたしには大事なことだった。

 

ジェロームとアリサは信仰について、文学について、将来の夢について語らう。その心の奥に抱くものを分かち合う。彼女らには理想がある。だけど現実は理想と全く同じように重なることはできなくて、その歪みが破綻を招くことはあって、でも小説の最後の方で、ジェロームはそれでもなおアリサの影を心に抱き続けていることがわかる。

わたしがこの小説が好きなのは、経験的な事実とは異なる実現されない理想をそれでも想像しうる人間のありようが、理想と現実の歪みが招く破綻の悲哀が、にも関わらず抱かれ続ける何かの存在の示唆が、たまらなかったからである。ジェロームは問われる。「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」

滑稽と悲惨

 印象に残っている映画のひとつに、『ブルーム・オブ・イエスタデイ』という作品がある。

ナチスの戦犯を祖父に持ち、祖父の罪と向き合うためにホロコースト研究をしている研究者の男(トト)と、ホロコーストで犠牲になったユダヤ人の祖母を持ち、ホロコースト研究をしているインターン生の女(ザジ)の物語。

重い題材にも関わらず映画はユーモラスに描かれていて、けれどもユーモアと本当のシリアスさのバランスが絶妙で、わたしはすごく好きだったのだ。2年ほど前に一度観たきりだから細かいところは忘れてしまったけれど、そこで感じたものは今でも良く覚えている。

 

映画のなかでひどく印象に残っているシーンがある。

ホロコーストで犠牲になった祖母を持つザジが、ある車を見てショックを受ける。彼女はそれを、「ユダヤ人が強制収容所に連れて行かれた車」と同じものだと訴え、いささか大袈裟なくらいの反応を見せる。だけどホロコースト研究者のトトは、ショックを受ける彼女に研究者としての知識を用いて彼女の誤りを指摘する。史実上の車のタイプを正確に述べる。

こうして文字にしてしまうと、いったいどこが笑えるんだと不思議に思うだろうけれど、映画のなかではザジのヒステリックな反応とトトの冷静なツッコミが大変ユーモラスに描かれていて、思わず「笑える」ようなものになっていたのである。

映画館でそのシーンを観た時、反射的に笑いながら「いやこれで笑うのはダメだろう」と即座に気まずい気分になり、でも笑えるんだよな、とも思い、なんとも複雑な気分になったのをよく覚えている。映画の序盤に配置されたそのシーンを観ながら、これは大丈夫かな、これを本当にユーモアとして「のみ」描いているならたいへんまずい映画だけど、そのまずさを承知の上に確信的にこういうユーモアを入れたのなら本当にすごいな、と思っていた。

 

『ブルーム・オブ・イエスタデイ』では、こういうブラック・ユーモア的なものがたくさん出てくる。つまり「被害者」のザジのヒステリックな反応、「加害者」のトトのいささか生真面目すぎる反応を茶化すような表現が多い*1

たしかに、ザジはいささか「過敏」に過ぎるようなところがある。

彼女自身もホロコースト研究を――まだインターンとはいえ――行なっているにも関わらず、しばしば彼女は不正確な知識に基づきヒステリックに反応する。それは研究者としてはふさわしい振る舞いではないかもしれないけれど、一般的に言ってよくあることである。

というのも、差別を受けた記憶のあるひとは、世界に対していわば「身構えている」ところがあるから。身構えているから、関連の話題や事象に敏感で、時には冷静に判断するまでもなく過敏な反応を示す。特に関心のない人から見れば揚げ足取りにしか見えないことだってある。実際に不正確で、理不尽な怒りだったりもする。

 

そういうザジが「笑える」感じに描かれている。

 

ザジを笑うのは実に残酷なことである。

倫理的に正しくないとも思う。だけどもある角度から見れば「大袈裟」な反応は笑いを引き起こすし、その「大袈裟」さが空回っていればそれはユーモラスでさえある。実際わたしは、時に度を超えた怒りを感じたり嘆いたりしながら、こういうわたしの反応は「笑える」だろうなと思う。笑えるだろう。ある角度から見ればいささか「繊細」に過ぎるほどに傷ついたり、「過敏」に過ぎるほどに怒ったり、それは「笑い」を引き起こすこともあるだろう。そう思う。なぜなら大袈裟な反応、空回り、ユーモラスな振る舞いの基本的な典型がそこにあるのだから。

 

『ブルーム・オブ・イエスタデイ』はザジとトトのやり取りをユーモラスに描く。

トトとザジの重苦しい背景、ふたりが奔走するアウシュビッツ会議の企画、それらは全く笑えるものではないにも関わらず、風変わりなふたりの造詣とそのやり取りはコメディタッチで描かれる。これは恋愛映画でもあるのだ。凡庸な言い方だけど、トトとザジは次第に惹かれ合う。そしてセックスもする。ここまでは、扱っている題材からしたら信じられないくらいユーモアたっぷりに描かれている。

にも関わらず、そのあとは全然「笑えない」のである。

ふたりは恋愛関係になり、セックスをして、トトは幸せな気分でいて、ザジも望んで彼と関係を持ったはずなのに、それまでの描き方からしてみればほとんど唐突なくらい、ザジが自殺未遂をはかる。もうユーモアはない。自殺未遂をしたザジの姿、目が覚めた後の彼女の表情に、笑える要素はすこしも残っていない。

映画は途端に暗くなる。物語はその設定からして当然抱え込むはずだった陰影を、重さを、苦しさを、如何しようも無い断絶を、突如として露わにする。もちろん分かり合えるはずが、通じ合えるはずが、恋愛などできるはずがなかったのだ。前半の軽快さ、ブラック・ユーモアで包みつつそれでもコミュニケーションを重ねて心を通わせていくふたりを描いたあの明るい楽観主義は消え失せて、陰鬱さのなかで、映画を観ているひとはようやく思い出す。

やっぱり笑えるはずがなかったと。これまで笑ったシーンの全てが、やっぱり笑えるはずがなくて、本当は悲惨さのひとつの表現に他ならなかったのだと。

 

この悲惨さがあったからこそ、あのブラック・ユーモアは確信的に織り込まれたのだと思えて、わたしはこの作品をとても好きだと思った。

たぶん、ザジみたいな反応を滑稽だと「のみ」感じている人はたくさんいるのだと思う。

差別の問題に、加害された歴史に固執していて、あまりに過敏でヒステリックで、馬鹿馬鹿しくて、そういうザジみたいな人を正直「笑える」と思っている人。その問題に「繊細」なあまり間違った知識や歪んだ認識に基づいて理不尽に怒っているのだろうと考える人。そういう人が望むような描写がこの作品にはある。

そういう人は不愉快で、倫理的によろしくなくて、それはそうなのだけど、でも実際に「身構えてる」ことがもたらす歪みや滑稽さはあって、でもそこで滑稽さのみしか感じ取れない人には決して理解できない拭い取れない悲惨さが、苦痛が、たしかにある。言葉にするにはあまりに複雑で微妙なことを、この映画は掬い取っているように思えた。だから好きだったのだ。

 

悲惨さは同時に滑稽でもあり得るし、けれども同時に拭い去れない悲惨さもある。

わたしはそういうのが昔からすごく好きなのである。悲劇はある角度から見れば喜劇で、逆もまたそうで、ひとは当然抱くと想定される感情とはまるで真逆のものを抱くこともあって、感情の出力がバグって、でもそのバグもまた真実ではあるような、そんな。

 

ところで悲惨さも描かれていたから好きだったのだ、と言ったけれど、わたしが悲惨と感じたところで笑うひともいるかもしれない。

もちろん、ナチスの戦犯の孫とセックスして自殺未遂をはかるザジだって「笑える」かもしれないし、ホロコースト研究者でナチスで犠牲になった祖母を持つ女を好きになってセックスして翌朝目覚めてみたら相手が自殺未遂を図っていて幸福から一転して絶望を味わう冴えない中年男性だって「笑える」かもしれないと思う。そういう「笑い」の感覚を持つ人もいる。そういう人もどこかで悲惨さを抱える場面もあるかもしれない。ないかもしれない。それはどうだっていい。ひとは悲しい時に悲しむとは限らないし、笑いたい時に笑うとも限らないし、出力された反応だけで全てを推し量ることなんてできないのだから。ただわたしはあの映画を観て、悲惨さと滑稽さの分かち難い複雑さを思ったのだった。笑えないけど笑えること、でも笑えないこと。滑稽と悲惨、喜劇と悲劇、その絡まり合った様について。

*1:本当はこの作品はさらに複雑である。というのも、ザジもトトもホロコーストの「直接」の被害者や加害者ではなくて、彼女および彼はその孫であるだけなのだから。そこには実際に自分が下していない罪について贖罪意識を持つことや、歴史を受け継いで生きること、被害と加害をめぐるもっと微妙な問題が含まれているように思えるけれど、まだあんまり考えがまとまっていないのでここでは言及しないでおく。