お人形遊び/叶えられなかった祈り

 お人形遊び

以前、好きな関係性や感情のタイプが決まっておりどのジャンルに行っても同じようなカプにはまり同じような解釈をやっている関係性オタクの“業”を友達が「お人形遊び」と表現していて、あまりにもあんまりな表現だったので深く印象に残っている。

 

そしてわたしは、もうものすごく「お人形遊び」をしている人間である。

好きな関係性や感情のタイプがあまりに明白なので、手を替え品を替え、同じ何かを求めて延々と「お人形遊び」をしている自覚がある。新しい何かを好きになった時は楽しいけれど、もちろんキャラクターによって違いはあれど、核となる部分は同じである。

それに気づくとウワアという気持ちになる。

もしかしてわたしは、今後も延々とキャラクターやジャンルだけ変えて同じ何かを求めて「お人形遊び」をして人生やっていくのか? マジで?

一体わたしは何をしているんだろう、どうしてこんな風に非実在人間関係にあらゆるものを託さざるを得ないんだろう。幾つになってもこれって変わらないんだろうか。改めて考えてみると、なんだか途方に暮れてしまう。

 

でも「お人形遊び」とはいえやっている方は真剣なので、解釈違いは戦争になる。

というか、実際に「解釈」の開示は大変なことだと思う。

人間のどんな行動を、どんな仕草を、どんなバックグラウンドを、人間たちのどんな関係性をどのように解釈するのか、何を望ましいものとして何を忌むべきものとするのか、それはその人の根本的な人間像や世界観を開示することに他ならない。

自分の理想とする人間関係を開示すること、世界をどういう風に見ているかを開示すること、そういうことがその人の心のいちばん柔らかく根本的な部分に触れないはずがなく、なので解釈は非常にデリケートな問題である。逆に言えば、会ったことも話したこともなくても信頼できる「解釈」をやっている人間を見かけるとやたら心のガードが下がる。

関係性オタクは当然のようにやっていることだけど、結構大変なコミュニケーションだな、と時折我に返ってしみじみ思う。

 

そうしてまた思う。わたしは一体なにをしているんだろう、こんな風に非実在人間関係を「解釈」して、創作なんかもして、それで誰かと意味不明なほどバチバチやったり逆に顔も知らない他人に異様なほどの親近感を抱いたりして、なんだろう、このコミュニケーションはなんなんだろう。非実在人間関係の解釈を通じて行われるコミュニケーション、(実在)人間関係ってなんなんだろう。構図としてすごく奇妙なねじれを感じる。ほんとうに不思議だ。

 

 

叶えられなかった祈り

どうしてこんな風に「お人形遊び」をやめられないかと言えば、少なくともわたしは、理想があるからである。

理想がある。こんな風であればいいなという想いがある。でも現実ではそれは難しい。そんなことはわかっている。けれども理想、美しい夢のようなものへの希求はだからといって消え失せるものではなく、何かに託して夢を見ざるを得ない。自カプが現実的に別れる可能性について考えると泣いてしまう。オタク的ファンタジーじゃなくて、本当に、時間の流れとか、そういう変化によってかつて特別だったものが消え失せてしまった、みたいな可能性を考えると泣いてしまう。

現実の人間は変わる。日々の中で移ろいゆき、常にひとところにとどまることができない。生きている人間はどうしようもなく自由で、現実は強力で、変わらないものはなくて、妥協のないものはなくて、本当に全き純粋さみたいなものはなくて、そういうことにうまく耐えることができない。

 

だから「お人形遊び」がやめられない。

理想を託すのがやめられない。自カプには、現実ではおよそ実現し得ない理想がつめこまれている。現実的には難しい。そんなことはわかっている。わかっているからこそ、こんなに非実在人間関係に気が狂っているわけで、自カプはいわば世界に唯一残った美しい場所、叶えられなかった祈りのようなもので、だから自カプが現実の人間関係のように破綻する可能性について考えると泣いてしまう。

 

 

オレンジだけが果物じゃない

ジャネット・ウィンターソンの『オレンジだけが果物じゃない』という小説に、こんな文章が出てくる。

 

わたしは神をなつかしむ。けっして自分を裏切ることのない存在をなつかしむ。わたしは今でも、神に裏切られたとは思っていない。神が本当に存在しているのかどうか、それさえわたしは知らない。ただ、いちど神という最高の相手を知ってしまったら、それに負けない関係を人間に求めるのは至難の業だ。でも、いつかはそういうものが見つかるのではないかと思っている、一度は見つかったとさえ思った。それを垣間見てしまったために、わたしは今もさまよい、大地と空の釣りあう点を探しつづけている。(pp276-277)

 

この小説がわたしはとても好きなのだけど、今引用した箇所は特に好き。

なにが良いって、理想の、完璧なものへの希求がとても端的に表現されているから。

最高のものを知ってしまったあとの現実の物足りなさを、少しの諦観と愛おしさともに表現しているから。

この小説の主人公は、狂信的なキリスト教徒の母に育てられたレズビアンで、母の宗教教育にも同性愛嫌悪にも本当に大変な思いをして、最終的には家を出るんだけど、それでもなお「神という最高の相手」を知ってしまったことをこんな風に書きつけている。シビアな現実と幻想が入り乱れ、独特の空気を持った小説で、わたしは大好き。

 

この小説を初めて読んだのは高校生の頃で、高校生の頃にわたしはある作文を書いた。

内容はあんまりよく覚えていないのだけど、物心ついてからずっと本の虫だった自分の偽らざる実感を書いていた。

小説の中には全き何かがある、圧倒的で完璧な衝撃を受けることができる、けれどもそれに比べて現実が与えてくれる感情は物足りない、この現実には物語が与えてくれる完璧なものがない、みたいな、たぶんそんな内容だったと思う。

ちゃんと覚えてないけど、学校の先生がすごく気に入ってくれて、先生の嬉しそうな顔だけクッキリ覚えてる。

 

 

オレンジだけが果物じゃない』が好きなのも、高校生の頃に書いた作文も、「お人形遊び」も、おそらくは全て同じことなのだと思う。

美しい理想がある。生きていくのに現実だけではとても満足できない。どうしても完璧な何かを、現実ではとても実現し得ない何かを求めてしまう。運命とか、魂の双子とか、既存の言葉では言い表せない関係性とか感情、変わらないものとか、そういう。お人形遊びがやめられない。わたしも大地と空の釣りあう点を探しつづけている。でもそのうちやめるときも来るかもしれない。だってわたしは生きてるから。どれほど抗おうと生きている限り変わり続けるから。かなしいね。おわり。