運命に口づけ

目の前の現実は無数の選択の積み重ねで、何かを選べばなにかを捨てざるを得ず、この現実にたどり着くまでに捨ててしまった無数の可能性があるはずで、こうではない現実もあったかもしれなくて、でもこうなってしまった、どうしてだろう、そういうことを考えていくなかで、「運命」という言葉にたどり着くんじゃないかな、とわたしは思う。

 

おそらく「運命」という言葉は、いま目の前にある“この”現実をどう受け取るか、ということに関わっている。ありえたかもしれない多様な可能性が喪われてしまって、今ここにただひとつのものとして存在している“この”現実を、どうやって受け取るか、受け入れるか、拒絶するかということなのである。

 

 

たとえば『輪るピングドラム』(ピンドラ)というアニメがある。

それは「運命」がひとつのテーマになっている作品である。

ピンドラではたとえば、物語の冒頭で高倉兄弟が「運命」という言葉を「嫌いだ」と言う。そして荻野目苹果は「運命って言葉が好き」と言う。

 

高倉兄弟は運命を、あるいは“この”現実を呪っている。

妹が病に倒れ、死にかけているこの現実を呪っている。それから事件を起こした両親を呪っている。望ましくない現実を前に、このような望ましくない現実を「決定的」なもののように思わせる「運命」という言葉へ唾を吐きかけている。

 

荻野目苹果もある意味“この”現実を呪っている。

姉が亡くなってしまって、両親が離婚してしまった“この”現実を呪っている。

彼女は「運命って言葉が好き」と言うけれど、そこで言われている“運命”は、正確には高倉兄弟が嫌うものとは異なっている。高倉兄弟が嫌うのは「望ましくない“この”現実を決定的なものであるかのように思わせる」ものとしての“運命”である。

対して荻野目苹果が好きだと語るのは、望ましくない“この”現実を正してくれる、正しい未来へと導いてくれるもの、正しい未来がいつか必ず訪れるのだと保証してくれるものとしての“運命”である。

 

だから高倉兄弟と荻野目苹果は、まるで正反対のことを言っているようだけど実は同じことを言っていて、ともに望ましくない“この”現実を呪っているのである。

でも最終話で高倉陽毬が語る運命についての言葉は、高倉兄弟や荻野目苹果のそれとは違うものだと思う。高倉陽毬は言う。

 

「私は運命って言葉が、好き。信じてるよ、いつだって一人なんかじゃない」

 

もう何度も観ているんだけど、それでも毎回この言葉を聞くたびに泣いてしまう。

だってそれは祝福だから。彼女が現に存在している“この”現実に対する祝福であり、なおかつ喪われた様々な「かもしれない」も、つまり高倉冠葉と高倉晶馬という兄がいた「かもしれない」も含んだ祝福だから。いつだって一人なんかじゃないから。運命、あるいは望ましくない現実に対する呪詛のようなものから、物語が祝福へと至ったから。呪いが祝福に変わったから。呪いが祝福に変わることほど素敵なことはない。

 

 

こういう現実ではない可能性もあった。でもこうなってしまった。そんな痛みにも似た驚きが、「現実」を認識することにはつきまとっている。喪われた可能性に対する喪のようなものが、いま目の前にある「現実」の認識の中心にある。

現実は悲しい。あったかもしれない無数の可能性に思いを馳せるたびに悲しい。たとえ今が幸せだとしても。そしてもちろん、今が幸せでなければ、より一層悲しい。そういう悲しさについて最近はぼんやり考えていた。それからピンドラが描いた呪い、至った祝福について考えていた。もうちょっと細かく考えて言葉にしたい部分はたくさんあるけれど、ひとまずここまで。祝福はいつだって麗しいね。誰かが誰かを救えるとしたらそれは奇跡だね。おわり。