足はどかさなければならない

世の中には「正しい」ものへの憎悪みたいなものが存在していて、たとえばポリコレを否定したがる人なんかの中には「正しい」ことそれ自体が許せないみたいな言い方をする人がいる。

そういう時にほとんど揶揄のような仕方で用いられる「正しさ」という言葉には、たぶん皮肉が込められてる。痛みを尊重される人と尊重されない人がいるんだ、みたいな、リベラルな価値観によって痛みを尊重される人とされない人がいるんだ、みたいな、おそらくはそういう含意がある。だからリベラルな価値観によって痛みを尊重されない人こそ「本物のマイノリティ」なんだ、みたいな、そういう訴えがある。

 

そういうのはたぶん、部分的に「正しい」なと思う。

社会の関心や人々の同情というのは平等に配分されるわけではない。関心を寄せられやすい人、同情されやすい人と、そうではない人がいる。それは確かなことだと思う。そしてより関心を寄せられにくい、同情されにくいと感じている人が、そのことを苦痛に感じるのも、もちろんそれはそうだろうなと思う。

 

でもその訴えをあんまり「正しくない」と感じる時もあって、それはそういう訴えが単にすでに踏んづけられている人の口を再び塞ぐように発せられる時で、すでに踏んづけられている人をもう一度しっかり踏んづけ直すように発せられる時で、そういう時明白に「正しくない」と思い、有り体に言うと怒りを感じたりする。怒りでいっぱいになり、嫌悪感でいっぱいになり、どこからどう見ても「憎悪」としか言いようのない感情を抱いたりする。

 

ただ関心を寄せられにくい、同情を寄せられにくいと感じている人自身は、たぶんわたしが「すでに踏んづけられている人」と思う人を特に踏んづけられていないと思っている。

だから「すでに踏んづけられている人」が声をあげた時には自分の方こそ口を塞がれてしまった、自分の痛みから正当性が奪われてしまった、自分の方こそ被害者なのにまるで加害者のように扱われてしまった、それこそ最も酷い抑圧だ、みたいな、そういう風に感じてしまうんだと思う。自分がいちばんの被害者で、いちばん酷い抑圧を受けていると誰もが思っていて、その中で誰の認知が歪んでいて誰の認知が真に「正しい」ものなのかを延々と争っているような、そんな。

 

もうずっと、長いこと、何年も、繰り返し、そういう光景を見ている気がする。

 

 

わたしはいわゆる極端な「相対主義者」ではないので、正当性のある主張と正当性のない主張があると思っている。正当性のない主張、とりわけ別の誰かを踏んづけてやまない主張は、その人が主観的にどれほど「自分こそが被害者だ」と感じていようと、その苦しみが甚大であろうと、それはそれとして批判されるべきだと思っている。足はどかさなければならない。

 

別に絶対的に「正しい」ことがこの世に存在すると思っているのではない。誰かの苦しみは別の誰かの苦しみよりも「尊重されるべき」と思っているのでもない。

自分の立場性を鑑みてどちらにより「共感」できるか、肩入れしやすいか、という部分は当然ある。ある程度のバイアスはもちろんある。でもそれを踏まえた上で、なおも主張の正当性を判断することは(ある程度までは)可能だと思っている。

 

不当に踏んづけられている人は救われなければならない。

正当な訴えは聞き入れられなければならない。

そうあるべきだと、少なくともわたしはそう思っている。

 

 

だけどそれはそれとして、自分の外側に「正当性」があって、その「正当性」にバックアップされているように思える人への憎悪みたいなものがこの世には存在しているな、ということはよく思う。

人は自分の苦しみを、自分だけで抱えることはできない。なんであれ自分の外側に自分を支えてくれる正当性を求めてやまないものであり、どうしても自分の外側に、自分の苦しみをバックアップするものが欲しくなってしまう。

 

たとえば、わたしの苦しみや怒りを表明することは「正当」なことであって、どこか「正当」に矛先を向けられる場所があって、わたしは「正しい」のだと、そういう風に感じられたら、苦しいなかでもすこし力を得られる気がする。

逆に、いやあなたの苦しみに「正当性」は全くない、あなたの苦しみは社会的に少しも「正しくない」、その苦しみや怒りは単なるルサンチマンに他ならないのであって、行き場はないし何か行き場を見つけたとしたらそれは酷い加害行為でしかない、と、そんな風に言われたら、ただでさえ苦しい中でより一層苦しくなってしまう。

でも実際にその通りなのだ。正当性がないとはそういうことなのだ。

どこへも出口はない。閉塞感しかない。正当化され得ない、どうしても逸脱せざるを得ない、にも関わらず自らを排斥する社会の中で存在せざるを得ない。でも憐れまれることもない。だって正しくないから。正当性はないから。積み重なっていく苦しみのなかでただ息を詰まらせるほかないから。そういう種類の苦しみが存在するのだと訴えることさえ、非難の対象になるほかないのだから。

 

 

繰り返すけど、世の中には正当性のある主張とない主張があるとわたしは思う。

正当性のない主張、とりわけ他人を踏んづけてやまない言説は批判されるべきである。不当に苦しめられている人は救われなければならない。不当な訴えは退けられなければならない。正当性というのはそういうものである。それは誰かにとっては暴力のようでさえあるかもしれない。実際に暴力なのかもしれない。あらゆる正当性は、必然的にある種の暴力なのかもしれない。だけど出口はない。どこにも行くことは出来ない。足はどかさなければならない。