“ハッピーエンド”を好きになれない

世の中的に“ハッピーエンド”と呼ばれるものを好きになれないことが多い。

でもそれは"ハッピーエンド"が嫌いというよりも、世の中でハッピーエンドとされるものはだいたいマジョリティの価値観の反映であり「幸せとはこういうものです、こうでなければ"幸せ"とは言えません、こうならなければ"幸せ"にはなれません」の含意を感じてしんどくなってしまう、ということなのである。

 

 

たとえばわたしは小さい頃から、「赤毛のアン」や「少女ポリアンナ」みたいに幼い頃お転婆だった女の子が、成長して男と恋をして立派な“レディ”になるみたいなのがすごく悲しかったし、幼い頃からずっと追っていた児童書のシリーズで最終的に登場人物が全員男女のカップルになったのもすごく嫌だった。

それは物語の展開が気に食わないとか、まあ気に食わないんだけど、でも単に好みじゃないとかそういうのとはちょっとちがう。その「嫌だ」という気持ちは、もうちょっと抽象的なものへ向かっていて、だから実は「赤毛のアン」や「少女ポリアンナ」といった具体的な作品がどうこうという問題でもない。物語の中にあらわれる世の中の価値観のありよう、人生や幸福のロールモデルに対する「嫌だ」なのである。

 

たとえばそれは、女の子の「成長」が、あたかも「男と恋愛」してそのおてんばという個性を失うこととセットになってるように思えて「嫌」なのである。幼い頃のジェンダー規範から比較的自由な振る舞いを捨て去り、男性との恋愛という異性愛ロールモデルの中に入り、“レディ”として、女性ジェンダーに求められる振る舞いを身につけること、それが女の子の「成長」なんだ、みたいな価値観を感じてしまって「嫌」なのである。


あるいは、様々な個性を持ったいろんな子どもたちが物語の終盤になるにつれ「全員」「男女のカップル」になってしまうとき、それが物語における「成長」や「大人になること」の象徴として描かれるとき、成長や大人になることやある種のゴール地点が「恋愛をすること」、それも「男女で」恋愛をすることにある、みたいな価値観を感じてしまって「嫌」なのである。

 

その個々の物語がどうこうというよりも、物語がある種の典型をなぞることで、世の中にあるジェンダー規範と異性愛主義(異性愛を当然のものとする、人は皆原則として異性愛者であるとする価値観)は再生産されて強化されていくのであって、だからわたしは世の中で“ハッピーエンド”とされるものを結構受け入れがたいと感じることが多い。

 

赤毛のアンポリアンナもみんな各々幸せになった、それでいいじゃないか、なんの文句があるんだ、と言う人も当然たくさんいるだろうけど、言いたいのはそういうことではないのである。アンやポリアンナが幸せになるのはもちろん祝福したいけれど、アンやポリアンナは実在の人間ではなくて、それは物語で、しかも児童書で、子どもたちにロールモデルを与えるもので、どんな風に大人になるのか、どんな“幸福”の形が人生にこの世界に用意されているのかを指し示すもので、だから単に「みんな幸せになった、それでいいじゃない」とは言いかねるのである。

 

赤毛のアンがダイアナと暮らすような“ハッピーエンド”の物語が、赤毛のアンがギルバートと結婚する“ハッピーエンド”の物語と同じくらいの数あるなら、もちろん話は違う。でもこの世界にはどう考えても赤毛のアンがギルバートと結婚する“ハッピーエンド”の物語の方が多くて、それがどうしてもやるせなくて、だからやっぱりわたしは文句を言ってしまう。

 

女の子はおてんばなままでもいいし、男と恋愛することは「成長」の必須条件ではないし、恋愛したからといって「レディ」になる必要はないし、一生をともにする人は異性じゃなくたっていいし、恋愛じゃなくたっていいし、赤毛のアンはギルバートと結婚せずにダイアナと一緒に暮らしたってよかった。子どもたちは大人になるからといって誰かとカップルにならなくたっていいし、なったっていいけどその相手は必ずしも異性じゃなくてよかった。

ハッピーエンドには、もっといろんな形が欲しかった。

 

 

“ハッピーエンド”というのは、世の中的にこういうものが幸せです、幸福の形です、と指し示す含意を持っていて、しかも「幸福」というポジティブなものなので、なんだか嫌だなと思っていても嫌だと言いにくい。

だって幸福はいいことだから。間違いなく疑い無く祝福すべきことに他ならないのだから。それに文句を言うなんて、人の幸せを否定するなんて、なんて狭量で不寛容で嫌な人間だろうと、そんな風に思われてしまうだろうし自分も自分のことをそんな風に思ってしまうから。祝福できない自分がおかしいんだって思ってしまうから。

 

だけど“ハッピーエンド”にしんどい気持ちになることもあるのである。

そのよくある幸福の形に、あたかも「そうでなければ幸せにはなれない」と言われているような気がしてしまう。たとえば女の子が男と恋愛して結婚して“ハッピーエンド”という物語ばかりが溢れている世の中だと、男と恋愛して結婚する以外の、たとえば女の子と恋愛する、結婚するのではなく友だちと一生一緒に暮らす、誰とも恋愛せずひとりで楽しく暮らす、そんな“幸福”はないんですよと言われている気がしてしまう。それが嫌でたまらない。

だから“ハッピーエンド”が好きになれない。

でもべつに幸福になりたくないわけじゃない。(幸福にならない自由もほしいけれど。)とにかくハッピーエンドには、もっといろんな形が欲しいと思う。

 

物語の中の幸福に傷つくのをやめたい。他人の幸福に傷つくのをやめたい。ルサンチマンまみれで祝福できない自分であることをやめたい。わたしもハッピーエンドを好きになりたい。ほんとうは、世の中で「こういうものです」とされているものだけじゃなくて、世の中的によくある形ではなくてもこういうのも「幸福」なんだよと、幸福にはいろんな形があるんだよと、様々な人に様々な形の「幸福」がこの世界に人生に用意されているに違いないんだよと、そんな風に呼びかけてくれる“ハッピーエンド”が欲しかった。わたしはそんな“ハッピーエンド”がずっとずっと欲しかったし、いまもほしい。