性的に他人を害する"力"について

性的に他人を害する力

どれほど“無敵”の美しさ若さを誇っていたとしても、どれほど神秘的で恐ろしげに見えたとしても、どれほど全能感あふれていたとしても、どれほどあらゆる未来の可能性をその手の中に握っていたとしても、それは失われ得る。損なわれる。

しかも単に時間の流れで失われるだけではない。性的に暴力を振るわれ、損なわれ得る。その“無敵”感は奪われてしまう。あたかもその暴力が決定的で、取り返しのつかないものであるかのように。

そんなことを、とりわけ「少女性」をめぐる表象に感じる時がある。

 

性的に暴力をふるわれ、そして少女は「損なわれる」ということ。

裏返せば、いかに“無敵”に見えたとしても恐ろしげに神秘的に見えたとしても、結局のところ何より“強い”のは、性的に他人を害する力を持っていることなのだと、そんな確信を持つに至る価値観が存在しているということである。

 

「性的に他人を害する力を持つこと」、これが結局のところ何よりも“強い”のではないか?

 

こういう価値観が世の中には存在していて、わたしの中にも確実にあると思う。

性的に暴力を振るうことが相手を決定的に損なうことだと、損なえるのだと、そう考えること。もっと別の角度から言うと、性的に害されることは恐ろしく取り返しのつかない暴力だと思うこと、それもまたこの価値観の一部をなしている。

これはとても言い方が難しいことなのだけど、ある意味では、性的に害されることを非常に重大なものだと捉えることそのものが、その価値観の中にあるのだと思う。

 

 

 

性的消費

性的消費、という言葉がある。

割によく使われる言葉で、わたしは感覚的に何を指し示そうとしているのかすごく「わかる」気がしていて、ある一定数以上の人がそれを共有して当然のごとく使っているようだけど、でも同時に「定義が曖昧だ」としばしば言われもする言葉である。

 

性的に暴力を振るわれること、ないしは物理的に暴力を振るわれなくとも何かを損なわれたと感じること、それがもたらすものは一体何で、何に由来していて、明白に定義するとすればどんな事象についてそれを言うのか?

 

それを、感覚を共有しない人にも納得のいく形で伝える言葉を、わたしはまだ持たない。

だって、なんなんだろう、とわたしも不思議に思っている。

“性的対象にされる/そういう風に見られる/言われること”が持つ独自の不快感と嫌悪感と恐怖感、あれってなんなんだろう。たとえば殴る等の物理的暴力や悪口等の精神的暴力ともちがう、独自の「損なわれた」という感覚、あれはいったいなんなんだろう。一体わたしの何が損なわれるというのだろう。

 

わたしはそれが何かを説明する十分な言葉を持っていないけれど、それは非常に大きなものだと感じていると思う。非常に大きいと、感じてしまう。どうしても。

たとえば足を思い切り踏まれるよりも、意思に反して性的な意図を持って足を触れられることの方が独特の不快感があって、何かが損なわれるような気がしてしまう。

 

ただ、もしかしたらそういう風に感じることそのものが、「結局のところ何より“強い”のは、性的に他人を害する力を持っていること」という価値観とある意味では結託しているのかもしれない。「損なわれる」と、そう認めてしまっているのだから。だから、無敵であるかのような少女を「決定的に汚すことができる」と考えるような類の人と、全く別方向ではあるけれど、ある種の価値観を共有してしまっているのかもしれない。

そう思うと、なんだかほんとうに、もうほんとうに、どうしようもない気分になる。

 

 

 

力を振るうこと

でも疑いなく、わたしの中にもそれがあるのを感じる。

だってわたしはたとえば非実在キャラクターのセックスについて、性経験について、生理について好き勝手に言う時、なんとなく「強い」気分になってしまう。

 

一方的に他人の性に言及すること、決して自分は脅かされずに済むこと、巻き込まれずに済むこと、非実在キャラクターとはいえ他人を一方的に性的に消費すること、それはわたしをなんとなく「強い」気分にさせる。強くなった気がする。高揚感がある。当然よくないことだとは思う。自分がされたら嫌である。嫌という言葉では言い表せないくらい嫌である。とはいえそれを「強い」と感じているのは事実である。なにか、ある種の権力を行使している気がする。

 

べつに、非実在キャラクターで、実在の人間に対するものでないのだからいいんじゃないかとか、いやでも倫理的によろしくないからやめるべきだとか、そういうことではない。そんな話をしているわけではない。単純明快な結論に一足飛びに辿り着いてしまいたいわけではないし、辿り着くべきだと思っているわけではない。

 

ただ、ある種の価値のシステムがあって、それは偏在していて、姿を変えて様々に現れていて、ある場所で現れるものを「嫌だ」と感じていたとしても、別の場所ではそれに絡め取られているかもしれない。単純に、実感として、そう思った、という話である。

 

 

 

拒絶すること

松浦理英子という作家がいる。彼女のエッセイの中に、「女は男をレイプするか」というものがあって、彼女はこんな風に言っている。

 

 十年ほど前、男の女に対する最大の侮辱・意趣晴らしは強姦・輪姦である、と信じている男と話す機会に恵まれた。わたしより十歳くらい年長で元全共闘だというその男は、嘘か本当か知らないが、実際に若い頃気に入らない女がいると仲間で輪姦していたのだそうだ。

 露悪家だけれどもナイーヴな人だと思った。レイプは確かに女にとっては不愉快だが、はたして最大の侮辱たり得るだろうか。(『優しい去勢のために』p294)

 

 

当然だけど、松浦理英子は「レイプなど大した痛手ではない」などと言いたいわけではない。性犯罪がもたらす苦痛を軽視しているのではない。

そうではなくて、「レイプが最大の侮辱になる」という価値観そのものを拒絶しているのである。性的暴力が決定的に何かを損なうという価値観を共有することを、拒否しているのである。その拒絶は本当に重要なものなのである。

 

昔このエッセイを読んだ時には、虚勢を張っているように見えたし、性犯罪のもたらす苦痛を軽視していると取られかねないと思えたし、そのような危険を冒してまで言う必要のあることとは思わなかったけど、なんだか最近ようやく少しだけ、それがどんなに大事なことだったのか、どうしても拒絶しなければいけないことだったのか、理解できた気がする。

それは拒絶しなければならないのである。そしてその拒絶はとても難しいのである。だけど拒絶しなければならない。少なくともある場面においては確実に、絶対的に。

 

 

***

 

 

「性」ってなんだろうなと考えていると、割に「殴る蹴る侮辱するなどの物理的暴力とも精神的暴力とも異なる独自の仕方で他人を損ない害することのできる特殊な暴力」と答えそうになってしまったりする。その定義が妥当かどうかはともかく、性と暴力が分かち難く結びついていることは確かなように思う。

 

性と暴力は分かち難く結びついており、いわゆる「政治的に正しい」語り方だけでは取りこぼされるものがある、と、そんな風に言う人は多い。けれども、そういう語り口自体がわたしには非常に粗雑で陳腐なものに思える。

性と暴力は分かち難く結びついている。それはその通りで、だからこそ慎重な語り口が求められるのであって、「政治的に正しくない」語り方がそれをすくい取れるとは思えない。まずその「正しい/正しくない」の二分法に乗ること自体が、極めて単純で慎重さに欠ける振る舞いに思える。繰り返す。

 

ある種の価値のシステムがあって、それは偏在していて、姿を変えて様々に現れていて、ある場所で現れるものを「嫌だ」と感じていたとしても、別の場所ではそれに絡め取られているかもしれない。