アイデンティティと言葉

かつて私は、セクシュアリティに関する増えつつある新用語をひたすら検索していたことがある。一般的に知られている「同性愛/異性愛両性愛」の区別だけではなくて、恋愛感情の向け方と性欲のあり方を切り分けて表現する言葉の数々をそれによって知った。

 

たとえば恋愛的指向(ロマンティック・オリエンテーション)と性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)を切り分けて、その上でさらに細分化していく言葉。恋愛感情も性欲も「ない」様を表す言葉。あるいは、(実在の/生存している)人間に向けられるのではない性欲や恋愛感情を表す言葉も。ありとあらゆる言葉を、その過程で私は知った。

そして無数に増えていく用語の知識を身につけながら、この先に何かがあるんじゃないかと思っていた。

この先に、自分に合う言葉が。埋もれそうなほどのカタカナの中に、その組み合わせに、私を十全に表現するものが。

 

無数のアイデンティティ・ラベルの存在は、自分と同じような欲求に駆られたたくさんの人の存在を示していた。おそらく多くの人が私と同じように、言葉を探していたのだった。それまで説明できなかった感情やありようを説明できる言葉を。

そのことは私を勇気付けた。

同じような人が他にもたくさんいると考えることは、こういう戸惑いや欲求を抱えているのは私だけではない、一人じゃないと思えるようになることで、それはとても良いことだった。

 

だけどある時から、私はそれを結局のところ自分の言葉だとは思えなくなっていった。

恋愛感情と性欲を切り分ける用語の新設に、私は今でもとても感謝しているけれど、そもそも「恋愛感情」とは、「性欲」とはなんなのかを問い直すことの方が私にとっては重要に思えた。

恋愛的指向と性的指向は違います、と言う時に想定されている「恋愛感情」とはなんなのか、「性欲」とはなんなのか?

問うべきなのはむしろそちらの方だった。なぜならそれがわからない限り、それらに対して私が感じる距離感は説明できないのだから。だから、あたかもそれらが自明のものであるかのように「恋愛的指向」や「性的指向」と言ってしまうことに違和感を覚えるようになった。

 

それから、私はずっと、恋愛感情や性欲とジェンダーの問題は絡まり合っているように感じていて、単純な因果関係は想定できないにしても切り分けて考えられるものではないと思っていた。女性の性欲や性的主体性を否定する規範の存在や、「恋愛」、特に「異性愛」に人間の親密な関係を限定する規範、そういうものの存在は大きいと。

だけどアイデンティティ・ラベルは現在の状況を、要するに結果を示すものである。

結果を示す言葉だけで満足することは、どうしてそういう状況になったのか、という過程への問いを覆い隠してしまう気がしていて、それが不満だった。私は過程こそを知りたかったのだから。

 

つまり私は、自分の現在の状況を示す言葉を探していたわけではなかったのである。

私は「今このようであるのはなぜか」を知りたかったのだ。

私はなぜこういう「私」であって、他のようではないのか。私は、あるいは私たちは一体何から逃れようとしていて、どこへ行きたがっているのか。このアイデンティティ・ラベルの増殖は私たちをどこへ導くのか、セクシュアリティ人間性に関するどんな変容を示しているのか、そもそも「私」とはなんなのか?

それは〇〇ロマンティックや〇〇セクシュアルといった用語をいくら積み重ねても辿り着けないことだった。自分が感じる違和感のひとつひとつを丁寧に言語化しなければならないのだった。私は私を説明する言葉を、自分で発明しなければいけないのだった。

 

アイデンティティ・ラベルの存在には、今でも感謝している。

アイデンティティ・ラベルはもやもやとした戸惑いを言葉にする助けになってくれた。それがなければ私は今でも、そもそも自分の戸惑いを正面から見据えるに値するものだとさえ思えなかっただろう。言葉にすることがどれほどの意味を持つのか、無数のアイデンティティ・ラベルは私に教えてくれた。だからこそ今、私は私自身の言葉を探したいと思っている。