ジョーカーとキリスト

どうして「ジョーカー」初見時のわたしは、アーサーをキリストと見間違えたりしたんだろう?

 

映画「ジョーカー」を初めて観たときのわたしは、とにかくひたすら美しかった、とばかり言っていた。美しかった。踊りが美しかった、息を呑むほど素敵だった。そんな言葉ばかりが浮かんだ。

悲惨さの中にそれでも拭い去れない美しさがあって、苦しい環境にしてはアーサーはあまりにも正当化しえないルサンチマンが希薄で、無垢で、わたしは彼のことをまるで人々の罪と期待の十字架を一身に背負い犠牲になるキリストのように思っていた。

 

でも今日、映画「ジョーカー」2回目行ってきて、初見の時のわたしの感想は全くの見当違いだったのではないかと感じて、なんだか唖然としてしまった。

冷静になって改めて観てみれば、アーサーは別にキリストでもなんでもなくて、普通の人間だった。普通にこの世の理不尽を恨み、ルサンチマンを抱え、意図していなかったとしても祭り上げられたら調子に乗ったりする、そんな普通の人間だった。物語は単純で、アーサーは社会に追い詰められ、犯罪を犯し、ジョーカーになっていく、単にそれだけだった。

一体わたしは何を観ていたんだろう?

 

 

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**(以下完全ネタバレ)**

 

 

普通に観れば、映画「ジョーカー」は「他人の目」から解放される物語である。

要するに、誰かを笑わせたかったけれどうまくいかず、愛を求めても得られず、誰からも見棄てられたように感じてあらゆる人から笑い者にされているように感じている男が、他人の目を振り切ってしまうような境地に至る(=ジョーカーになる)物語である。

 

・他人の目

物語の序盤、市の福祉サービスで自分の状況について話すアーサーは、「コメディアンになりたい」という話をする。

以前にも話したはずなのに、相手は彼の夢を「初めて聞いた」と言う。「前にも話したと思うけど」控えめにアーサーは言うけれど、相手は彼の言葉を気にも留めない。

でもいつもそうなのだ。世の中の誰もが、まるで自分のことを尊重していない。アーサーはそう思っている。道端でのたれ死んでいても、誰も気に留めてくれないだろうと。そんな風だから、ずっと自分が本当に存在しているかどうかもわからないと。

誰にも本当の意味では見られていない。アーサーはそう感じている。

 

アーサーは別の場面で、精神の病を抱えた人にとって最大の敵は人々の視線だ、という内容をノートに書きつけてもいる。

それから、人々は心の病などない、普通にしろと言うんだ、とも書いている。

彼を蔑み、笑い者にする他人の目が、何よりも彼を苦しめているのである。

 

彼はコメディアンになりたくて、人々を笑わせたいと思っているけれど、彼が意図して笑いを起こそうとした時には人々はまるで笑ってくれない。笑ってほしい時に笑ってくれなくて、彼がひどく惨めで苦しい時に、追い討ちをかけ、より一層苦しめるかのように人々は笑う。

当然だけど、それが彼にはたまらなくいやで、たまらなく恐ろしいことなのだ。

 

だからコメディアンになることを彼が望んだのは、ある意味で当然なのである。

コメディアンになるということは、自身の意図に反して「笑い者にされる」のではなく蔑まれ貶めるように「笑い」を受けるのではなく、自分の意思で人々の笑いをコントロールし、称賛と好意のこめられた「笑い」を受ける立場になる、ということなのだから。

 

そしてそんな彼の特徴は、病による笑いの発作である。

アーサーは泣くように吐くように慟哭するように笑う。それは苦しいことなのである。笑いたくなくても発作のように笑いが起こり、止めることができないのだから。

苦しいのに出てくる表現は「笑い」で、彼は彼の苦しさを十全に他人に伝える手段そのものを奪われていて、彼の身体は彼自身を裏切って笑いに痙攣してしまって、彼の身体と精神はちぐはぐで、彼自身の身体が彼にとっての牢獄なのである。

 

自分自身が何よりも逃れがたい檻なのである。

彼のどうしようもなく引き攣る笑いと強張った動きのすべてが、枷を示している。

他人の目から逃れること、自分自身という檻から逃れること、それを可能にしてくれるのが「ジョーカー」であり、ジョーカーになって人々の通常の道徳的価値観から離脱し、そのことでむしろある種のヒーローになったとき、彼はその枷を外すことができたのだと思う。

 

 

・マレーをめぐる妄想

他人から本当の意味で見られることを望む気持ちと、他人から笑われることへの恐れとは、たとえばアーサーの有名コメディアン(マレー)をめぐる妄想に端的に現れている。

 

マレーというコメディアンに心酔するアーサーは、テレビの前でマレーのテレビ番組の観客席にいる妄想をする。

マレーに拍手を送り、愛してると叫び、マレーの目にとまる妄想。

マレーの目にとまるけれど、彼は「母と二人で暮らしている」と発言して、他の観客から笑われてしまう。だけどマレーはアーサーをかばってくれて、ステージまで呼んでくれて、まるで父親みたいに彼を抱きしめてくれる。そういう妄想。

他人から笑われることへの恐怖と、望んだ人(”父”の代理としてのマレー)に愛されるという願望がそこにある。

 

マレーは彼にとっての父のようなもので、だからこそ彼の妄想はいつだって「自分がマレーに代わってマレーのような有名コメディアンになる」ことではなく、「マレーの番組に出てマレーに認められる」ことだったのだ。

彼は父のような存在に、たとえばマレーに認められ、愛されたかった。

 

(ところで、アーサーは他に恋人ができる妄想も抱くけれど、本当に重要なのはマレーをめぐる妄想だと思う。ちなみに父=トーマス・ウェインは母が抱いた妄想で、アーサーのものではない。彼は母の妄想に付き合い影響されはするけれど、アーサーは決してウェインが本当に父として彼を受け入れるという妄想を抱くことはない。アーサーは意識していなかったようだけど、アーサーが求めていた父はウェインではなくてマレーだったとわたしは思う。)

 

物語を通じて、アーサーの「コメディアンになりたい」という夢が「ジョーカーになること」にすり替わっていくけれど、その変容を最も象徴しているのがマレーをめぐる妄想である。

 

はじめアーサーが抱いた妄想の中では、マレーは彼をあざ笑う人々からかばい、彼を受け入れ、父のように抱擁してくれたけれど、苦しいことが重なるにつれ、その妄想も変化していく。

次に彼がマレーの番組に登場する妄想を抱く時は、マレーはむしろ積極的に彼を笑い者にするのだ。彼の惨めな映像を流して、マレーは彼をジョークのネタにする。

裏切られた、と彼は思う。

それは要するに、「本当に自分のことを見て、自分の存在を受け入れてくれる人がいるはず」という彼の希望が潰えていったということである。彼は裏切られた。

妄想の中のマレーの裏切りは、文字通り世界の彼に対する裏切り、最終的な希望の消滅を示している。

 

だからアーサーがアーサー自身として、自分自身として誰かに受け入れられる希望を失った時、最後に訪れるのは「ジョーカーとしてマレーの番組に出演し、マレーを殺す」という妄想だったのである。

母を殺した時、アーサーは一度死ぬ。アーサーとしての人生がそこで終わる。

そうしてジョーカーになって、マレーの番組に出演するためにマレーに会い、その楽屋でもう一度、今度はジョーカーの姿のまま、ピストルを首に当てる仕草をする。マレーを殺すからである。

マレーを、ずっと抱いていた最後の希望を殺す時、アーサーは本当にジョーカーになる。

 

 

・「ジョーカーになる」という幻想

いちおうDCシリーズの有名ヴィラン「ジョーカー」の誕生物語ということになっているけれど、そのような枠組みを度外視してこの映画だけ単体で観れば、おそらくは精神病院に収容されて終わるこの物語は、「ジョーカーになる」という妄想を抱いた男の物語としても読めるように思う。

 

ダークナイトのジョーカーとあまりに印象の違うホアキンジョーカーを観ていて、個人的にはこれは「ジョーカーになる」ことそのものもひとつの妄想なんじゃないかな、と感じていた。精神病院と思わしき場所で、光に包まれて踊る彼の姿は、それを暗示しているように思えた。

 

ジョーカーになること、それは象徴的に言えば「他人の目」が通用しない境地へ、一般的な判断基準の彼岸へ行くことであって、アーサーが成し遂げた跳躍はそういうものだったんじゃないかな、と。

 

たとえば母を殺す前、ジョーカーになる時、彼はひとつの転換を遂げる。

母はハッピーと自分を呼んだけれど、ハッピーだったことなんて一度もなかった。そう言う。

 

要するに「ハッピー」は母の暴力的な押し付けだった。

助けを求めることのできない子供、苦しみを十全に外に表すことのできない子供から、苦しみの表現を奪ってしまう恐ろしい暴力だった。その収奪が尾を引いて、彼は笑いの発作を抱え、大人になってからも苦しみを表現することができずにいた。

それは紛れもない悲劇だった。

彼は母を殺す直前、自分のそれまでの人生を「悲劇」と表現する。悲劇であると訴えることを長きにわたって奪い続けた母に向かってそれを言う。

 

その上で、彼は「自分の人生は悲劇だと思っていたけれど、むしろ喜劇なんだ」とも言う。

一般的価値判断からして「悲劇」に他ならなかったアーサーの人生から、自らの価値判断を絶対として一般的な「悲劇」を主観的な「喜劇」とも捉え返すことのできるジョーカーへ。

悲劇を喜劇と捉え直すこと、押し付けられた「ハッピー」をはねのけたうえで、悲喜劇/幸不幸の客観的判断基準を自分のものとして奪い返し、反転させること、すなわちジョーカーへと変身を遂げること、を彼は宣言するのである。

 

それから、マレーを殺す前にも、彼は「すべては主観だ」という話をする。

善悪なんてみんな主観で決めてるじゃないか、と言い、「殺人」という一般的に言って悪とされる行為について開き直った、あるいは的を外した発言をする。

なぜ証券マンを殺したのか? 彼らが音痴だったからだ。そんな風にジョーカーは言う。

なぜ人は死んだ証券マンに同情するのか? 自分が道端で倒れていても気にもしないくせに。そう言って、彼は人々の「善悪」の判断に潜む恣意性を糾弾する。

 

すべては主観である。他人の判断などどうでも良いのである。

そう考えれば、アーサーの苦しみから逃れることができる。他人に笑われること、誰からも省みられないことを苦痛に感じていた自分自身から彼は離脱し、人々の一般的価値判断を嘲笑する「ジョーカー」になるのである。

 

人々の一般的価値判断の彼岸にいる「ジョーカー」は同時に、人々から持ち上げられるヒーローでもある。それは甘美な幻想だ。

他人の目に苦しめられてきた人間にとって、その苦痛から逃れ、なおかつ衆目を集める「ヒーロー」にもなれるという幻想以上に魅力的なものはないのではないか。

 

 

・「ジョーカー」というジョーク

物語の最後、かつての市の福祉サービスの担当者と同一人物らしき人の前で彼は笑いを漏らす。何がおかしいのかと問われ、ジョークを思いついたんだと彼は言う。

 

どんなジョークを思いついたんだ、と聞かれるけれど、彼はかつてのように日記を差し出したりはしない。自分の話を聞いていない、と怒りを露わにすることも、自分が本当に存在しているのかわからないと感じることもない。「理解できないさ」と笑うだけである。

だって、他人の理解などもう求めていないから。ジョークはもしかしたら「ジョーカーの正体」にまつわるものだったかもしれないけれど、もうそんなこと誰に理解されずともどうでもいいから。そうして彼は踊る。まぶしいばかりの光のなかで、手錠をされていてもそんなこと気にもせずに、軽やかに、跳ねるように、まるで自由みたいに。

 

 

***

 

 

2回目を観て、わたしが読み取った「ジョーカー」の物語は以上のようなものである。

 

それは古典的で、ある意味で単純に過ぎていて、あまりにも人間だった。他人の目に苦しめられ、社会に追い詰められた孤独な男が、善悪の彼岸へいく、ヴィランになる。いささか陳腐なほどに人間的な、あまりに人間的な物語。

2回目に観た「ジョーカー」は、それはそれで好きだと思う。

 

だけど初見の時、なんのバグを起こしたのかアーサーをキリストと見間違えてしまった「ジョーカー」体験も、何にも代え難いものだった。

アーサーがマレーをめぐる妄想を、ジョーカーになる妄想を抱いたように、恐らくはわたしもアーサーに幻想を抱いていたのだった。

 

どれほど悲惨な状況でも、ルサンチマンを抱かず無垢で美しいままで、それなのに暴走する人々の身勝手な期待を背負わされて「ジョーカー」というシンボルとして祭り上げられ、苦しくも麗しかった人間的な生から引き剥がされてしまう、そうして悪のヒーローになりある種の救いを人にもたらすような、そんな、救われないことによって誰かを救うような、奇妙に歪められたキリストのような存在をめぐる幻想。

徹底的に貶められ、救われず、そのことによって誰かを救うような、悲劇と喜劇が一体になったピエロのようなヴィラン。わたしの幻想。彼はヒーローだったのだ。なんだか夢でも見ていたような気持ちだけど、初見の時のわたしは確かにその姿を幻視していたのだった。