滑稽と悲惨

 印象に残っている映画のひとつに、『ブルーム・オブ・イエスタデイ』という作品がある。

ナチスの戦犯を祖父に持ち、祖父の罪と向き合うためにホロコースト研究をしている研究者の男(トト)と、ホロコーストで犠牲になったユダヤ人の祖母を持ち、ホロコースト研究をしているインターン生の女(ザジ)の物語。

重い題材にも関わらず映画はユーモラスに描かれていて、けれどもユーモアと本当のシリアスさのバランスが絶妙で、わたしはすごく好きだったのだ。2年ほど前に一度観たきりだから細かいところは忘れてしまったけれど、そこで感じたものは今でも良く覚えている。

 

映画のなかでひどく印象に残っているシーンがある。

ホロコーストで犠牲になった祖母を持つザジが、ある車を見てショックを受ける。彼女はそれを、「ユダヤ人が強制収容所に連れて行かれた車」と同じものだと訴え、いささか大袈裟なくらいの反応を見せる。だけどホロコースト研究者のトトは、ショックを受ける彼女に研究者としての知識を用いて彼女の誤りを指摘する。史実上の車のタイプを正確に述べる。

こうして文字にしてしまうと、いったいどこが笑えるんだと不思議に思うだろうけれど、映画のなかではザジのヒステリックな反応とトトの冷静なツッコミが大変ユーモラスに描かれていて、思わず「笑える」ようなものになっていたのである。

映画館でそのシーンを観た時、反射的に笑いながら「いやこれで笑うのはダメだろう」と即座に気まずい気分になり、でも笑えるんだよな、とも思い、なんとも複雑な気分になったのをよく覚えている。映画の序盤に配置されたそのシーンを観ながら、これは大丈夫かな、これを本当にユーモアとして「のみ」描いているならたいへんまずい映画だけど、そのまずさを承知の上に確信的にこういうユーモアを入れたのなら本当にすごいな、と思っていた。

 

『ブルーム・オブ・イエスタデイ』では、こういうブラック・ユーモア的なものがたくさん出てくる。つまり「被害者」のザジのヒステリックな反応、「加害者」のトトのいささか生真面目すぎる反応を茶化すような表現が多い*1

たしかに、ザジはいささか「過敏」に過ぎるようなところがある。

彼女自身もホロコースト研究を――まだインターンとはいえ――行なっているにも関わらず、しばしば彼女は不正確な知識に基づきヒステリックに反応する。それは研究者としてはふさわしい振る舞いではないかもしれないけれど、一般的に言ってよくあることである。

というのも、差別を受けた記憶のあるひとは、世界に対していわば「身構えている」ところがあるから。身構えているから、関連の話題や事象に敏感で、時には冷静に判断するまでもなく過敏な反応を示す。特に関心のない人から見れば揚げ足取りにしか見えないことだってある。実際に不正確で、理不尽な怒りだったりもする。

 

そういうザジが「笑える」感じに描かれている。

 

ザジを笑うのは実に残酷なことである。

倫理的に正しくないとも思う。だけどもある角度から見れば「大袈裟」な反応は笑いを引き起こすし、その「大袈裟」さが空回っていればそれはユーモラスでさえある。実際わたしは、時に度を超えた怒りを感じたり嘆いたりしながら、こういうわたしの反応は「笑える」だろうなと思う。笑えるだろう。ある角度から見ればいささか「繊細」に過ぎるほどに傷ついたり、「過敏」に過ぎるほどに怒ったり、それは「笑い」を引き起こすこともあるだろう。そう思う。なぜなら大袈裟な反応、空回り、ユーモラスな振る舞いの基本的な典型がそこにあるのだから。

 

『ブルーム・オブ・イエスタデイ』はザジとトトのやり取りをユーモラスに描く。

トトとザジの重苦しい背景、ふたりが奔走するアウシュビッツ会議の企画、それらは全く笑えるものではないにも関わらず、風変わりなふたりの造詣とそのやり取りはコメディタッチで描かれる。これは恋愛映画でもあるのだ。凡庸な言い方だけど、トトとザジは次第に惹かれ合う。そしてセックスもする。ここまでは、扱っている題材からしたら信じられないくらいユーモアたっぷりに描かれている。

にも関わらず、そのあとは全然「笑えない」のである。

ふたりは恋愛関係になり、セックスをして、トトは幸せな気分でいて、ザジも望んで彼と関係を持ったはずなのに、それまでの描き方からしてみればほとんど唐突なくらい、ザジが自殺未遂をはかる。もうユーモアはない。自殺未遂をしたザジの姿、目が覚めた後の彼女の表情に、笑える要素はすこしも残っていない。

映画は途端に暗くなる。物語はその設定からして当然抱え込むはずだった陰影を、重さを、苦しさを、如何しようも無い断絶を、突如として露わにする。もちろん分かり合えるはずが、通じ合えるはずが、恋愛などできるはずがなかったのだ。前半の軽快さ、ブラック・ユーモアで包みつつそれでもコミュニケーションを重ねて心を通わせていくふたりを描いたあの明るい楽観主義は消え失せて、陰鬱さのなかで、映画を観ているひとはようやく思い出す。

やっぱり笑えるはずがなかったと。これまで笑ったシーンの全てが、やっぱり笑えるはずがなくて、本当は悲惨さのひとつの表現に他ならなかったのだと。

 

この悲惨さがあったからこそ、あのブラック・ユーモアは確信的に織り込まれたのだと思えて、わたしはこの作品をとても好きだと思った。

たぶん、ザジみたいな反応を滑稽だと「のみ」感じている人はたくさんいるのだと思う。

差別の問題に、加害された歴史に固執していて、あまりに過敏でヒステリックで、馬鹿馬鹿しくて、そういうザジみたいな人を正直「笑える」と思っている人。その問題に「繊細」なあまり間違った知識や歪んだ認識に基づいて理不尽に怒っているのだろうと考える人。そういう人が望むような描写がこの作品にはある。

そういう人は不愉快で、倫理的によろしくなくて、それはそうなのだけど、でも実際に「身構えてる」ことがもたらす歪みや滑稽さはあって、でもそこで滑稽さのみしか感じ取れない人には決して理解できない拭い取れない悲惨さが、苦痛が、たしかにある。言葉にするにはあまりに複雑で微妙なことを、この映画は掬い取っているように思えた。だから好きだったのだ。

 

悲惨さは同時に滑稽でもあり得るし、けれども同時に拭い去れない悲惨さもある。

わたしはそういうのが昔からすごく好きなのである。悲劇はある角度から見れば喜劇で、逆もまたそうで、ひとは当然抱くと想定される感情とはまるで真逆のものを抱くこともあって、感情の出力がバグって、でもそのバグもまた真実ではあるような、そんな。

 

ところで悲惨さも描かれていたから好きだったのだ、と言ったけれど、わたしが悲惨と感じたところで笑うひともいるかもしれない。

もちろん、ナチスの戦犯の孫とセックスして自殺未遂をはかるザジだって「笑える」かもしれないし、ホロコースト研究者でナチスで犠牲になった祖母を持つ女を好きになってセックスして翌朝目覚めてみたら相手が自殺未遂を図っていて幸福から一転して絶望を味わう冴えない中年男性だって「笑える」かもしれないと思う。そういう「笑い」の感覚を持つ人もいる。そういう人もどこかで悲惨さを抱える場面もあるかもしれない。ないかもしれない。それはどうだっていい。ひとは悲しい時に悲しむとは限らないし、笑いたい時に笑うとも限らないし、出力された反応だけで全てを推し量ることなんてできないのだから。ただわたしはあの映画を観て、悲惨さと滑稽さの分かち難い複雑さを思ったのだった。笑えないけど笑えること、でも笑えないこと。滑稽と悲惨、喜劇と悲劇、その絡まり合った様について。

*1:本当はこの作品はさらに複雑である。というのも、ザジもトトもホロコーストの「直接」の被害者や加害者ではなくて、彼女および彼はその孫であるだけなのだから。そこには実際に自分が下していない罪について贖罪意識を持つことや、歴史を受け継いで生きること、被害と加害をめぐるもっと微妙な問題が含まれているように思えるけれど、まだあんまり考えがまとまっていないのでここでは言及しないでおく。