狭き門

「では、あなたは、希望のない恋を、そういつまでも心に守っていられると思って?」

「そう思うよ、ジュリエット」

「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」

アンドレ・ジッド,山内義雄訳『狭き門』,新潮文庫,p.249)

 

 

わたしは高校生のころ、『狭き門』という小説を、どうしてかはうまく言えないのだけど大変に好きだと思っていた。

ものすごく単純に言ってしまうと、信仰にもとづく徳や完璧な歓喜を追い求めるあまり破綻してしまう恋の物語なのだけど、表面的な物語とは別のところですごく好きだった。特に気に入ったのが「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」という台詞だった。かつてのわたしはそれを、当時の読書記録に書き写した。声に出さずとも幾度となく呟いたのだった。

だけど昔のわたしは、どうしてそれが好きなのかうまく言語化できなくて、だから小説について覚えているのも、ぼんやりとした印象と気に入っていた断片的なフレーズのみで、でも最近読み返していて、気づいた。どうしてそれが好きだったのか、今では明瞭に言葉にできることに気がついたのだ。

 

どうして現代日本に生きていてとりたてて信仰心があるわけでもないわたしが、1908年のフランスの男性が書いた信仰と人間関係をめぐる小説に惹きつけられたのか?

 

なんてことはない、それは簡単に言って、わたしがオタクだったからである。

わたしが関係性のオタクだったから。信仰とは違うけれど、心に抱く理想がわたしにもあったから。理想の関係性と現実の関係性の落差に怯える様、理想を想うあまり現実の人間関係を遠ざけてしまう様、完璧な歓喜を追い求めるあまり全てが破綻していく様、それが関係性のオタクの心に響いたから。たとえば同じオタクと理想を共有しながら、それについて語り合いながら、にも関わらず語っているところ共有しているところの当の理想とは隔たれた自分たちの関係性に歯がゆさや落胆や焦燥を感じること、そんなことがわたしにもあったから。

 

以前わたしは関係性のオタクについて「お人形遊び/叶えられなかった祈り」というブログを書いたのだけど、そこでこんな風に書いた。

 

現実の人間は変わる。日々の中で移ろいゆき、常にひとところにとどまることができない。生きている人間はどうしようもなく自由で、現実は強力で、変わらないものはなくて、妥協のないものはなくて、本当に全き純粋さみたいなものはなくて、そういうことにうまく耐えることができない。

 

改めて読み返してみると、どうしてかつてのわたしが「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」という台詞を気に入ったのか、あまりに明白なように思う。

 

 

***

 

 

『狭き門』のなかで、アリサとジェロームは信仰について、詩について、互いの精神世界に踏み込む事柄を語り合う。自分たちの幸福をたまらなく愛おしく思っている。

だけど同時に、その幸福が、自分たちの関係が、本当に追い求めるものと重なるのか、これから先も重なり得るのか、恐れている。

ふたりは幾度か恐ろしい落胆を味わう。完璧になるはずだった、幸福で満たされるはずだった出会いが、気詰まりと失望のなかに終わる悲しみを味わう。

とりわけアリサは苦しむ。彼女の心に抱く信仰にもとづく理想のためには、むしろ共にあっては近づけないと考えるようになる。そんなアリサに、ジェロームもまた苦しむ。最終的にふたりは心を擦り合わせることができないまま、アリサは死んでしまう。

 

読み返してみたら、そういう『狭き門』がまたもやひどく心に響いてしまった。

全然違うといえばまあ全然違うのだけど、ジェロームとアリサの苦しみを、わたしも知っているような気がした。要するにオタクとしての自分のあれこれに『狭き門』が刺さったのだ。そういえばわたしは、同じ関係性のオタクの女のひとのことがものすごく好きで情緒が完全にめちゃくちゃになってた頃、よく思っていた。理想について、現実について、その落差について、それでも失われない何かについて。

 

めちゃくちゃになってた頃のわたしは、よく思っていた。

わたしたちはどうして、こんな風に(表面的には「オタク語り」という形態を取りながら)人間関係や人間性をめぐる解釈を、根本的な世界観を、理想を、これほど共有しながら、自分たちでそれをやることができないのか? 

余程のことがないと他人には開示しないような、自分の核となる価値観を見せ合って、ある意味では最も深い種類のコミュニケーションをやりながら、でも同時に「オタク語り」というワンクッションを挟んでいて、それは表面的には深いコミュニケーションではなくて、じゃあ結局のところこれってなんなのか、わたしたちはなんなのか、ワンクッションを挟まずにはいられないコミュニケーションってなんなんだろう? たまらなく大切だと思っているものを共有していて、欲望と理想を詰め込んだ創作物を見せ合って、でもそんなことをしながら恋人というわけでもなくて、一体なんなのか。

 

それこそがたまらなく特別なんだと思うこともあれば、全く馬鹿馬鹿しいままごとに過ぎないと思えることもあって、なりきりなんか特にもうダメで、とにかく苦しかった。こうして文字にすると本当にバカみたいだけど、でもわたしは全くもって真剣だった。本当に思い悩んでいた。既存の関係性に当てはまらない強い絆や感情、みたいなものはわたしの理想の関係性の核となる部分だったけれど、自分が築いているものの実態は掴めなくて、考えれば考えるほど焦燥感でいっぱいになって、どうしようもなかった。

信仰心とも詩ともなんの関係もないけど、しょうもなくて馬鹿馬鹿しいけど、でもそれがわたしにとっての真実で、表面的にはなんの関係もないけど『狭き門』は確かに刺して来るものがあって、わたしには大事なことだった。

 

ジェロームとアリサは信仰について、文学について、将来の夢について語らう。その心の奥に抱くものを分かち合う。彼女らには理想がある。だけど現実は理想と全く同じように重なることはできなくて、その歪みが破綻を招くことはあって、でも小説の最後の方で、ジェロームはそれでもなおアリサの影を心に抱き続けていることがわかる。

わたしがこの小説が好きなのは、経験的な事実とは異なる実現されない理想をそれでも想像しうる人間のありようが、理想と現実の歪みが招く破綻の悲哀が、にも関わらず抱かれ続ける何かの存在の示唆が、たまらなかったからである。ジェロームは問われる。「そして、日ごと日ごとの生活がその上を吹きすぎても、それが消されずにいられるだろうと思って?」