『魔女の宅急便』と女の人生

かつて『魔女の宅急便』を観た時、幼い自分が何を考えたのか、わたしは思い出せない。

何を考えただろう? ジジが可愛い、キキが可愛い、空を飛べるっていいな、魔女っていいな、という以外に、一体何を考えただろう?

おそらく何も考えてなかったに違いない。ニシンのパイを届けるシーン、ジジが動かずにぬいぐるみのふりをしているシーン以外のことはほとんど何も思い出せないのだから。

 

幼い頃何を考えたかは少しも思い出せないのだけど、先日金曜ロードショーで久しぶりに『魔女の宅急便』を観たら、幼い頃には気づかなかったに違いない色々なことを考えたのだった。

もうわたしは幼い子どもではなくて、物語の中の出来事がただ単に出来事としてあるのではなく何らかの比喩や象徴として存在している(少なくとも古典的な「文学」の考え方ではそういうことになっている)ことを知っているし、キキがホウキに乗れなくなったのは初潮(=成熟)のメタファーだったら嫌だな、とか、そんなことを考えたりする。

そうして考えてみると、覚えていたよりずいぶん悲しくなる話だった。

キキは「女の子」で、「女の子」の成熟のわかりやすい兆しは初潮で、だとするとキキがホウキに乗れなくなったのは初潮がきたこと、もう自由に空を飛べる子どもではなくなったこと、地に足をつけて歩む大人になったことの象徴かもしれなくて、もしそうだったらすごく悲しい。

キキがホウキに乗れなくなって、一生懸命ホウキに乗る感覚を取り戻そうとしたり、「空を飛べることがわたしの取り柄だったのに」と悲しそうに言っていたり、そういうところを見ていると本当に悲しい。

ホウキに乗れなくなったキキが再び空を飛ぶのがトンボ(=男性)のためというのも、二人が助かると同時にオソノさんの「出産」が示唆されるのも、少女の「成熟」が男性と出産に向かって方向付けられているように思えて悲しい。

ジジが喋れなくなるのも、キキが自分だけの小さな隠れ家を失ってしまうのも、いくらそれが「成熟」なのだと言っても悲しい。

放送が終わったあと、『魔女の宅急便』でいろんな年齢の女のキャラが出てくるのは「ひとりの女性の成長」を描いてるんだ、といった趣旨の解釈を見かけたのも悲しい。それは女性の人生の種類を限定してしまうものの見方に思える。森の中で画家をやってる女の子とパン屋さんで切り盛りしてる妊婦さんと婆さんと二人暮らしをしているおばあさんはみんな別の女なのに、女にはいろんな生き方があり暮らし方があるのに、その多様性が年代の問題に還元されてしまうように思える。

要するに、大人になってから観る『魔女の宅急便』はただ何も考えずに見ていた頃よりずっと悲しくなる機会の多い作品だった。それはある意味、ひとりの少女の「成熟」を描く物語であり、少女の「成熟」に関する限定的な捉え方が表れている作品のように思えたのだ。

 

ただ、『魔女の宅急便』はもちろんそれだけではなくて、たとえば森の中で画家をするウルスラさんを、ウルスラさんがキキにもたらした影響の大きさ(あるいはウルスラさんとキキの関係に女同士の絆やクィアネスを読み取ることもできるかもしれない)を、パン屋で切り盛りするオソノさんを、ファッションデザイナーとして活躍している女性としてのマキさんを、老女二人で暮らしているらしき女性たちを、あの作品が実に様々な「女性」の姿を描いていることを、それ自体として単にポジティブに受け取ることもできる。

魔女の宅急便』には実に多様な「労働する女性」が出てくるのである。魔女であったり、パン屋であったり、画家であったり、ファッションデザイナーであったり、それは様々である。

だからたぶん、『魔女の宅急便』は「仕事をして自立する女性」を様々な角度から描いた作品、女性のビルディング・ロマンとして解釈することもできるかもしれない。

わたしはよく知らないけれど、一種の「フェミニズム」的な作品として評価されていたりもするのかもしれない。

わたしは『魔女の宅急便』のことをあんまり覚えていなかったけれど、あの作品に励まされた女の子、キキみたいに頑張ろうと思った女の子もいたかもしれない。キキに限らず、マキさんに、オソノさんに、ウルスラさんに、作品を彩る魅力的な少女たちに魅せられた人は多かったかもしれない。それは良いことに違いない。

 

大人になったな、とぼんやり思う。

かつてわたしはキキと同じくらいの年齢だった。キキと出会った時のわたしはむしろキキより幼い少女だった。わたしにとってのジジがいた。わたしもホウキに乗れているような気がしていた。魔法を使えたことはなかったけれど、すごく小さな頃は、たとえば11歳になったらホグワーツの入学許可書が届くんだと信じていた。わたしは子どもだった。少女だったのだ。

けれどももう子どもではない。

わたしはもうジジと話すこともできないし、ホウキに乗ることもできない。

今思うのは、キキもオソノさんもウルスラさんもマキさんもニシンのパイの少女もおばあちゃんもその同居人も、ありとあらゆる女がいて、ありとあらゆる女の、それぞれの人生があるということである。

大人になって観る『魔女の宅急便』は、覚えていたよりも悲しくて、覚えていたより色々な女性の姿があって、覚えていたよりずっと複雑な気分になる作品だった。